9. 絵 3





「先輩も猫、好きなんですか?」
「うん。昔からずっと飼ってたから。随分前に死んじゃったけど。」
「…もう一度飼ってみたいと思いますか?」
「そうだな…。」

そんな会話をした3日後。
僕は真吾君の了承を得て、先輩をあのカフェへ連れてきた。

真吾君も一緒に。

「うわほんとだ可愛いなー!名前は?」
「……ない。」
「え?ないの?」
「……ここでは飼えないから。」
「んん?飼えないのか?」
「…そう。」

真吾君の腕の中で1鳴きする猫を見て、先輩は興奮したように色々質問していた。
本当に猫が好きなんだな、と思える表情で。
そしてその横では真吾君が単語単語で先輩の質問に答えていく。

…これでいいと、思う。

先輩への気持ちを自覚したばかりである今なら、まだ笑っていられる。
先輩の応援を、心からできる。

「忍君、彼は先輩?」

2人を少し離れたところから見ていた僕に話しかけてきたのは真吾君のおばさん(そういえば最近名前を教えてもらった。夏江さんと言うらしい)で、先輩と真吾君の方を向きながらりんごの皮を剥いていた。
…器用だなぁ…。

「はい。美術部の先輩です。」
「あら?忍君は美術部だったの?」

あれ?
言ってなかったっけ?

「あ、はい。中学の時から入ってたので…。」

夏江さんが剥いていたりんごの皮がぷちっと切れた。
それは重力にしたがってぽとりと地面に落ちる。

「あの…。夏江さん?」
「あらやだ私としたことが。りんごの皮むきで失敗したことなんて一度も無いのに。」
「……ギネスでも目指してるんですか?」
「それは高校のときに諦めたわよ。」

にっこりと笑ってそう言う夏江さんと真吾君が親戚だなんて、教えてもらわなかったら絶対分からない。

「そうだ忍君。ちょっとお茶しない?」
「え、いいんですか?」
「ええ。ちょうどりんごも剥き終わったところだしね。」

からんと音を立てて店の中に入る夏江さんを追って、僕もドアに手をかけた。
ちらりと2人の方を見ると、なにやら猫のほうに夢中だ。
猫を撫でている真吾君と、気持ちよさそうに撫でられている猫を穏やかな笑顔で見つめている先輩から、僕は目を逸らして店の中に入った。

実は今日、このカフェは定休日。
毎週水曜日はCLOSEの文字がドアの内側から掛けられている。
そして学校も開校記念日で休みだった。
今度はゆっくり来てね、という夏江さんの言葉を思い出して、真吾君と行こうと話していた。
先輩が猫好きだと思い出したのはその時。
その事を真吾君に話して、もしかしたら引き取ってくれるかもと言うと、複雑そうな顔をしながら先輩も一緒に行く事を了承してくれた。

もちろん猫の引取りの事も本当だけど。
僕は先輩と真吾君が少しでも一緒にいられる時間を作りたかった。

「適当に座っててね。すぐ準備するから。」
「あ、ありがとうございます。」

なんとなく恐縮して、すぐ近くにあった椅子に腰を落ち着けた。
ここからは外の音が聞こえない。
2人の声も聞こえない。
静かなクラシックが控えめな音で流れているだけ。

「はい、おまたせ。ミルクティーでよかったかしら?」
「あ、はい。ありがとうございます。」

受け取ったミルクティーを一口飲む。
喉を通ったそれは、たった一口なのに何故か全身に広がっていくようだった。
体全体でほっと息をつけたような気がする。

「おいしい…。」
「ありがとう。」

夏江さんは笑顔でそう言うと、僕の隣に座った。
なんだかとても懐かしい感じがする。
この店の雰囲気も、夏江さんの出す雰囲気も。
とても安心するような…そんな感じ。

そんなことを考えながら貰ったミルクティーをもう一口飲んだとき、ふと僕の目に絵が映った。

それは誰かの肖像画。
描かれているのは女の人で、どこかを見つめているその目に見覚えがある。
…見覚えがあるも何も。

「……あの絵って、夏江さんですか?」

今、僕の隣でおいしそうに紅茶を飲んでいるこの人だ。

「ええ。亡くなった主人が描いてくれたの。」
「…絵を描かれていたんですか?」
「趣味程度だけどね。絵を描くと落ち着くんだーって言って、一日中外で描いていた事もあったわ。」

その時の事を思い出したのか、夏江さんは笑いながら話してくれた。

「毎日スケッチブックを持ってあちこち歩き回ってたわ。店の事はそっちのけで描いてたこともあったわね。何度怒鳴ってやろうと思ったことか。」

な、なんだか笑っていいのか分からない。
だって僕も一度集中してしまったら周りのことなんて頭からすっぽ抜けてしまうから。

「でも笑顔で描いた絵を見せてくれるあの人を前にするとそんな気持ちもしゅるしゅるしぼんじゃってね。もう、なんかいいかって気分になってしまうの。不思議なものね。」
「……夏江さんは、本当にその人の事が好きだったんですね。」
「ええ。とっても。」

そういって笑う夏江さんはとても綺麗で。
恋をすると女の人は綺麗になるって本当なんだろうなぁなんて思っていたら、夏江さんの表情が急に曇った。
その目は悲しそうに肖像画に向いている。

「夏江さん?」
「……でもね、私はあの人に、一度も自分のこの気持ちを言葉にして伝えたことが無かった。」
「……。」
「一度も、よ?何年も付き合っていて、結婚してからも何年も経っていたのに…その間、一度もあの人の事がどれほど好きか、なんてこと伝えなかった。その事に気付いたのはあの人が亡くなってから。全て遅すぎた。」

言葉が出なくて、僕はミルクティーをまた口に含んだ。
喉を通っていく感覚に、少し安心する。

「それでもあの人は毎日笑っていたから…。今の私にとって、それだけが救いになってるわ。……ねぇ、忍君?」
「はい?」
「もし、とてもお腹が空いていて目の前にお菓子があったら、あなたはどうする?」

いきなりの話題転換に首を傾げつつ、夏江さんの質問の意図を考える。
考えるけど、答えは1つで。

「…お腹が空いていたら、きっと迷わず食べます。」
「そうよね。…じゃあ、もし自分がとてもお腹が空いていて、それでも他の子がそのお菓子を欲しいと言っていたらどうする?」

自分はお腹が空いていて…きっと目の前に食べ物があったなら僕は迷わずそれを食べるだろう。
でももし他の人がその食べ物を欲しいと言っていたら…?

それも、僕にとっての答えは1つしかない。

「……その子に、そのお菓子をあげると思います。」
「ふふ。なんとなく忍君ならそう言うと思ってたわ。」

だって、それでその子が喜んでくれるなら…それが僕にとって一番嬉しいことだから。
別に自分を犠牲にしてるわけでも、いいことをしようとしているわけでもない。
ただ、僕には始めからその選択肢しかないだけ。

「でもね、これからその選択が出来なくなるときがきっと来るわ。その子がどんなに欲しいといっても、絶対に譲れないものがこれから必ず現れる。その時、忍君はどんな選択をするのか。それがきっとこの先の人生を変えることになる。」
「人生…ですか。」

何だか話が大きくなってきたような気がする。
それに、僕にそんな譲れないものが本当に現れるのか…。
あえて言うなら絵は絶対に手放したくないものだけど、きっと夏江さんが言っているのはそういうものではないだろう。
それだけはなんとなく分かる。

「あ、私の話、信じてないでしょう?」
「えっ?いえ、そういうわけでは…。」
「まぁ、私が忍君くらいの時にもそんなもの無かったから、きっと同じような事を言われてもぴんとこなかったと思うわ。」

にこにこ笑いながらそう言う夏江さんの言葉は、今の僕には全く実感を伴ってこないもので。
だからこそ、次の言葉に驚いたのかもしれない。

「でもね、どうやら真吾君はそれを見つけたみたいなの。」
「…見つけた?」
「そう。動物以外に興味を示したことの無かったあの子が、どうしても他の人には譲れないものが出来たみたいなの。」

何でだろう。
何か、すごく衝撃を感じてる。

「……。」
「もしかしたら、忍君も気付いていないだけですでにそれを見つけているのかもしれない。」

…どうして僕はこんなにショックを受けているんだろう?

「誰かのために何かをするのもいいことだけど…忍君は、もっと自分を甘やかしてもいい部分があるのかもしれないわね。」

夏江さんがそう言ったとき、ようやく僕たちがいないことに気付いた真吾君と先輩が、からんからんと音を立てて店の中に入ってきた。