8. 絵 2
「……。」
「……。」
「……。」
静かな部屋に筆の滑る音が響く。
3人分の呼吸がその音に集中する。
奇妙な緊張が漂っていた。
真吾君は何故か僕の絵に夢中で。
先輩はそんな真吾君に夢中で。
そして僕は…。
描きにくい…!
「……あの。」
「ん?」
「何?」
ん?でも何?でもなくて…。
どうして真吾君はそんなに僕の絵をじっと見ているのでしょうか…?
「…えっと…。」
「……どうして、またその絵を描き始めたの?」
唐突に真吾君はそう僕に聞いた。
そう。
僕は数日の間描く事ができなかった絵を再び描き始めていた。
それは、あの夜桜の絵。
真吾君のイメージの絵。
先輩の気持ちを知ってから、暫く描けないと思ってた僕をあっけなく覆したのは真吾君本人なのに。
「…うん…。なんとなく、また描きたくなったから…。」
「ふーん…。」
僕の返答に満足がいかなかったのか、真吾君は不機嫌そうにそう呟いたっきり黙りこんでしまった。
時々…いや、結構頻繁に、真吾君が分からなくなるよ…。
「…よし、俺も忍を見習って真面目に部活をするか!」
なんとなく無言になった僕たちの空気を吹き飛ばすかのように先輩はそう言うとくるっと背中を向けた。
実は入部してから僕は先輩が描き上げた絵を見たことが無い。
唯一見たのは初めてここに来たとき展示してあった空の絵。
僕が一瞬で惹き込まれた、あの絵だけ。
次はどんな絵を描き上げるんだろう。
「…忍、俺そろそろ弓道の方に戻るな。」
「あ、うん。もうすぐ試合があるんでしょ?」
「あぁ。」
そして真吾君はよくここにくるようになった。
始めは放課後だけ。
しばらくすると部活の休憩時間にも来るようになった。
何をするでもなく僕の描く絵をじーと眺めるだけ。
そして時間になると部活に戻っていく。
そんな真吾君を先輩は時々見つめていて、僕はその度困ってしまう。
真吾君が見ているのは僕の絵で、そんな真吾君を先輩は見ていて、そしてそんな先輩を僕は見ている。
ぐるぐる回っているだけのその視線が交わる事はない。
「じゃぁ、また放課後に。」
「うん。なるべく集中しすぎないように頑張る!」
いつもいつも待たせてしまうのが悪くてそう言うと、真吾君は笑いながらこつん、と僕のおでこを弾いた。
……なんで?
「遅くなってもいいからちゃんと集中しろよ。」
格好いい微笑を残して、真吾君は美術室を出て行った。
「忍たちの会話って、なんかおもしろいよな〜。」
「そうですか?」
「うん。……忍に心を許してる山口君もなんか可愛いし。」
ツキン、と胸が痛んだ。
でも僕はその痛みを無視して笑みを浮かべる。
「…真吾君を可愛いって、初めて聞きました。」
「え?そうかな?」
そう言って照れたように笑う先輩を、これからどれだけ見ていくことになるんだろう。
「先輩は、今何を描いているんですか?」
「ん?これ?ん〜…、内緒。」
「教えてくれないんですか…。」
「うちの部活って自分のペースで絵を描けるからいいよな〜。」
「話を逸らさないで下さい…。」
僕と会話を交わしながら先輩は手を動かしている。
その横顔が段々真剣なものになっていくのを見て、僕は会話を止めた。
先輩のその顔から、絵に対する想いが伝わってくる。
僕は、先輩のどこに惹かれたんだろう。
初めは、先輩の描いた絵だった。
僕にはとても描けそうに無い、今思えばとても先輩らしい絵にしばらく釘付けになった。
そして次は笑顔。
先輩が見せてくれた笑顔に、見惚れてしまった。
…どちらにしても一目惚れだったんだ。
先輩の笑顔が好きなのは今も変わらない。
その笑顔を崩してほしくないと思う。
先輩に、幸せになってほしいと思う。
なら。
僕がすべき事は…。
僕が、望んでる事は…。
◇◇◇◇◇◇
1人の男の子と1人の女の子が小さいテーブルの前に座って何かを話しています。
テーブルの上には1つのお菓子。
男の子はとてもお腹が空いていました。
女の子はお腹は空いていなかったのですが、そのお菓子はずっと食べたいと思っていたものでした。
私、これ欲しい。
目を輝かせながらそう言う女の子に、男の子は空腹を我慢してお菓子をあげました。
女の子はそんな男の子の様子に気付くことなくお菓子をポケットに入れて満足そうに笑いました。
ありがとう。
男の子はその顔を見て、とても嬉しくなりました。
◇◇◇◇◇◇
昔から僕は欲が無かった。
あったとしてもそれを無理矢理心の奥底に仕舞いこんで、誰かに譲っていた気がする。
でもそれはしょうがない、とかそういう気持ちではなくて。
相手が笑ってくれればそれでとても満足感を得られた。
自分が少し我慢すれば周りは笑ってくれる。
それが、自分の存在価値の様に思うようなった。
そしてそういう生活を続けていくうちに当たり前になってきて、今では自分でも気付かないうちに色んなものを仕舞いこんできた様に感じる。
それでも後悔はしていない。
だからきっと今回も、僕はその選択を選ぶんだろう。
先輩が笑顔でいてくれるなら――…。
『たまには自分にもっとわがままになってもいいと思うわよ。』
ふと思い出した言葉を、僕はまた心の中に仕舞いこんだ。