10. 絵 4





「忍〜!」
「ぶっ!」

からん、と音が鳴ったと思った次の瞬間、僕は真吾君の襲撃にあった。
突然のスキンシップだ。
おかげで飲んでいたミルクティーを噴出してしまった。
って、いうか…!

「……ホント仲良いんだなぁ…。」

せ、先輩の目の前でそれはやめて…!
とりあえず離してもらおうと、後ろから僕に抱きついている真吾君の腕に手をかけたとき、なにか柔らかいものが僕の足元に擦り寄ってきた。

「うわぁっ!」

反射的に後ろの真吾君に抱きついてしまった。
だだだだって、柔らかいというかくすぐったいというか……びっくりした…。

「………ねこ、だよ。」

すぐ傍から真吾君の声が聞こえて、僕は慌てて腕の中から抜け出した。
そしてふと足元を見てみると確かに猫がいた。
何故かじっと僕を見上げている。

「…なんか忍を探してるっぽかったから連れて来たんだよ。」

なんだかちょっと苦笑いをしている先輩が、僕の疑問だらけだっただろう顔を見ながら教えてくれた。
確かにさっきから猫は僕の足元に留まったままこっちを見てるけど…。

「…何で?」
「ホントに忍のことが好きなんだなー。」
「そういえば初めから忍君にはすぐに懐いたわよねぇ。」

うんうんと夏江さんも頷いている。
まだ気性の激しさを知らなかったとき、ふと手を伸ばした僕にその猫は何の躊躇いもなくすり寄ってきた。
真吾君以外には誰にも懐かなかったこの猫が。

「…おいで。」

何だか急にその猫が愛おしくなって、手を差し出した。
猫は一鳴きして軽々と僕の腕の中に飛び込んできた。
あー…かわいいなぁ。

「…忍、悪いけどその猫、俺は引き取れない。」

ゆっくり猫を撫でていた僕に、しばらくじっとしていた先輩は困ったような笑みを浮かべたままそう言った。

「そう…ですか。」
「ごめんな?」
「あ、いいえ。いいんです。」
「……俺はさ…そいつは、俺のところに来るより…ここにいたほうが幸せなんじゃないかって思ったよ。」

え?

「俺には毛を逆立てて威嚇するけど、山口君と忍にはすごく安心したように体を預けてるだろう?」

そういえば僕の腕の中で寝てしまったこともあった。

「きっとその猫にとっての飼い主はもう決まってるんだよ。」

決まってる…?
それって…。

「多分、その猫にとって山口君と忍が飼い主で、安心できる存在なんだろうなぁ。」
「…でも…。」

ちらりと腕の中の存在を見る。
それに気づいたのか、猫も僕を見上げて目を逸らさない。
……なんか、僕たちの会話を理解しているみたいだ。

「実はね、私も考えていたの。」
「夏江さん?」

いつの間にか真吾君と先輩の飲み物も準備してきた夏江さんが、また僕の隣の椅子に座って、笑いかけてきた。

「この店でその猫、飼おうかなって。」
「え?で、でもアレルギーが…あるって…。」

アレルギーがあるから飼えない。
初めて真吾君を見かけた時、確かにそう言っていたのを僕は聞いたし、親しくなってからも何度か夏江さんはそう言っていた。
でも考えてみれば夏江さんは猫に触っていたこともあったし、いつもためらいなく傍に寄ってきていた。

「ええ。でも、アレルギーがあるのは私じゃなくて…亡くなった主人なの。」

僕は無意識にあの肖像画へ視線を向けていた。

「この店はあの人と2人でずっとやってきたものだから…これからもそのつもりで続けていこうと思って、動物を飼うつもりはなかったわ。」

絵が好きでいつもスケッチブックを持っていた、人。
夏江さんが好きで、きっとあの絵もとても愛情を注ぎこんで描いたんだろう。
夏江さんは一度もあの人に自分の気持ちを伝えなかったと言っていたけど、きっと彼はそのことに気づいてない。
だって、夏江さんは全身で自分の想いを表している。
一つ一つの行動に、それぞれの想いが込められている。
きっとそれは彼が亡くなってからも変わらず続いていることで…。

「でもね…このままその子に名前も与えず、飼い主を見つけてあげられてないなんて知ったら、あの人に怒られてしまうなって。きっとあの人は、自分がアレルギーだって事を忘れて、その猫を飼うんだ!って言い出すんだろうなーって。」

楽しそうに笑うその顔を見て、急に僕は、羨ましい、と思った。
…何に対して羨ましいと思ったんだろう。

「……俺も、そう思う。」

ぎ、と音を立てて椅子を引きながら真吾君がそう呟いた。
夏江さんとは反対側の僕の隣に座ると、アイスティーをぐいっと飲んだ。
…なんかどっかで見たことあるような飲み方だな…。

「そうでしょう?それに、もう今更その子を他の人に渡すなんてこと、できそうにないもの。たとえ名前を付けなくても、愛着が湧いてしまって。」
「きっとその猫にとっても、それが一番嬉しいことだと思いますよ。」

先輩は安心したようにほっと息をついていた。
そこまで夏江さんが考えているなら、もう僕が言えることは何もない。
それに何より……僕も嬉しい。

「そっか…。よかったね。ここにいられるんだよ。」

腕の中でもぞもぞしていた猫にそう話しかけると、心なしかうれしそうに鳴き声を上げた。
やっぱり話してることが分かっている様に思えてしょうがない。

「…じゃあ、名前つけよう。」

ぷはっとアイスティーを一気飲みをした真吾君が、これまた嬉しそうに微笑みながらそう言った。
うんうん。
飼い主(この場合誰になるんだろう?夏江さん?真吾君?)も決まったことだし、早く名前を付けてあげよう。
コクコクと頷いた僕の耳に先輩の声が届いたのはその時。

「……それにしても山口君、すごい飲みっぷりだな。」

その言葉に、さっきの真吾君の飲み方が、風呂上りにビールを飲むときの父親と似ていたことに気付いて、なんとなくおかしかった。






◇◇◇◇◇◇






空を見上げて見えるのは、青と白と表現できない光。
単純そうに見えるその色は、実はとても複雑に混ざり合っている。


彼が笑ってくれるなら、僕は彼を諦められる。


そう思っていた僕の心にぽつんと落ちた言葉は、しばらく消えそうにない。


『誰かのために何かをするのもいいことだけど…忍君は、もっと自分を甘やかしてもいい部分があるのかもしれないわね。』


僕は今まで自分を犠牲にしたつもりは一度もないし、“誰かのため”にしたと思ったこともない。
いつからそう思うようになったんだろう?

でも。

もっと自分を甘やかしていいと言ってくれるなら。

どうか。

まだ今は、このままで。

今はまだ、このまま何も言わず、何も伝えず、何も知らない様に笑っていたい。

こんな些細な日常の中で、暖かな陽の中で、過ごしていたい。




そのときそう願った僕の願いも、叶えられることは、なかったけれど。