6. 笑顔 4
「あぁやっぱり。だって今までのとは雰囲気が違うから。」
「雰囲気…ですか?」
「そう。なんか、その――…」
「忍、帰ろう。」
先輩の言葉を遮ったのは、やっぱり不機嫌そうな真吾君の声で。
これ以上彼の機嫌を損ねないうちにと、僕は慌てて帰る準備を始めた。
「ご、ごめん。ちょっと待って…わっ、み、水!こぼれ…。ああ!鞄が落ちるー!」
慌てすぎて1人で物をひっくり返していたら、後ろでぶっと噴出す声がした。
…見なくても誰かはすぐ分かった。
「……真吾く〜ん…。」
自分でも驚くほど恨めしげな声が出た。
それでも真吾君は肩を震わせてくっくと笑いを堪えている。
堪え切れてないけど。
「いや、そんな慌てなくても…。」
だって真吾君を待たせちゃ悪いと思って…。
言葉には出せなかったけど、その気持ちは伝わってしまったらしい。
「悪い悪い。別に待ってるのは全然苦じゃないからゆっくり支度しろって。」
「…うん。」
彼のことを無愛想だっていう噂は変わらずあるけど、やっぱりそんなことないよね。
真吾君は、すごく優しいよ。
いつだってちゃんと、僕の事を気遣ってくれるしさりげなく助けてくれる。
みんなにももっと、そういう所が分かるといいのに。
「しっかし…し、忍は…見ててあきな…いよな、ホン…と。」
「…真吾君、笑うか話すかどっちかにしてよ…。」
そこまで笑ってくれるとは思わなかったよ…。
なんか恥ずかしい…。
とにかく早く帰ろうと僕は急いで荷物を鞄に押し込んだ。
「よし。ごめん真吾君、随分待たせちゃって。」
「いや。」
「先輩もすみません。いつもいつも…。」
言いながら先輩を振り返ると、先輩はいつになく呆然としたような顔をして微動だにしていなかった。
「…先輩?」
「……え?」
僕の呼びかけに、ようやく顔を動かしたけど…どこか動きがおかしい。
どうしたんだろう?
「先輩大丈夫ですか?どこか調子でも…。」
「えっ?あ、いや大丈夫大丈夫!別に体調が悪いとかそういうわけじゃないから!」
ちゃんと帰る準備はしていたらしい先輩はそのままがっと鞄を掴んで、これまた珍しく鍵を真吾君に任せたままドアまで走っていった。
……やっぱりなんかおかしい…よね?
「じゃぁ今日は先に帰らせてもらうな。忍、また明日。」
「あ、はい。」
そのまま教室を出るのかと思っていたら、ふとまたこっちを振り返って…今度は真吾君に向かって言った。
「山口君も、またいつでもここに来ていいからね。」
「……。」
その言葉に無表情で頷いた真吾君を見て、先輩は笑った。
その笑みは照れているような、嬉しそうな、そんな笑みで…。
…僕は。
「じゃあ、お先。」
「…はい。……お疲れ様で、す…。」
なんだかとても。
「…俺たちも帰ろう、忍。」
「あ、うん…。」
とても、嫌な予感がしたんだ…。
◇◇◇◇◇◇
案外それは早く分かった。
それは僕が先輩をよく見ていたからとかそんな理由ではなく、ただ本当に見てしまったから。
それは、偶然だった。
次の授業が移動教室で、廊下を歩いている時だった。
ふと目を向けた先に真吾君が寝ていた。
そこは桜の木が多く植えてあるから人一人いたぐらいじゃ目立たないのに、何故かこの時僕はすんなりと真吾君を見つけることが出来た。
そしてそこで寝ているという事は当然サボっているという事で。
なんだか真吾君らしいな、と思って暫く眺めていたらそこに先輩が近づいてきた。
手に教科書を持っているところを見ると、先輩も移動教室なんだろう。
そのまま真吾君の隣まで歩いてくると、先輩は手を伸ばして真吾君の髪に触れた。
「……。」
僕は、その時のシーンが絵みたいだな、とぼんやり考えていた。
真吾君は全く目を覚まさない。
先輩はそのまましばらく髪に触れていたけど、時計を見て名残惜しそうに離れていった。
その時の、真吾君を見つめる先輩の眼差しが、とても優しかった。
そして、とても愛おしそうだった。
「――……。」
あぁ。
そうなんだ、と思った。
僕のこの想いが叶うなんて思ってはいなかったけど、こうもあっさり現実を突きつけられるのは予想外だった。
でも、あまりにも突然だと逆に何も感じないものなんだな…。
それでも何故か泣きそうになる自分を必死に押さえ込んで、僕はその場から足を動かした。
恋をするのが突然なら、失恋するのも突然。
僕は気持ちを伝える前に、相手の気持ちを知ってしまった。
僕の好きな人は部活の先輩。
先輩が好きなのは学校でも有名な、僕の友達。
僕はその日、初めて部活を休んだ。
ゆらゆらと、水面が揺れる。
輝いている太陽の光を反射して、周りを明るく照らす。
雲1つない空。
でも。
無音の世界。
確かに揺れているのに、波の音が聞こえない。
風の音が聞こえない。
明るくて明るくて、でもそこには音がない。
そんな、夢を見た。
「……今度は海の絵?」
昨日突然休んだ僕を怒るでもなく心配そうに理由を尋ねた先輩に、咄嗟に体調不良と答えた僕は、何かを聞かれる前に椅子に座った。
今はとても、先輩の顔を見れそうにない。
そして描き始めたのは昨日の夢。
まだ色もついてないその状態で、先輩は何を描いているのか分かってしまったみたいだ。
「…はい。」
「この前描いてたやつは?」
この前…?
あぁ、あの桜の絵…のことかな。
「……あれは、今はとても描けそうにないので…。」
今の気持ちのままじゃ、とても納得のいく絵を完成させる事はできない。
だってあれは…。
「……。」
真吾君だから。