1章
Act.7
心臓がバクバクいっているのがわかる。
長距離を全力疾走で走った後みたいな動機。
二人が何かを話しているけど、内容までは分からない。
その距離を保ったまま俺はしばらく立ち止まっていた。
動けなかった俺を再び動かしたのは、腕を引っ張る徹の力強い手だった。
「…あ、徹ゴメン…。水持って行くの遅くなっ…。」
「そんなことどうでもいい。有川はもう寝てるし。」
「……そういえばさっき寝そうになって…。」
「もう酔いは醒めたよ」
言葉を返す徹の声がいつもと違ってなんだか怖かった。
そして俺は何かから逃げるように、話しかけるのを止められなかった。
「どうしてここにいるんだ?」
「話し相手がいなくなったから気分転換に外に出ただけだよ。」
「……そうだ。水だけ買うのもなんだからつまみとかも買ってきちゃったんだよ。」
「……。」
「その組み合わせも正直どうかと思ったけどさ。」
「…海斗。」
「どうせだから二人で食べ――…。」
「海斗。」
決して大きくはなかったけれど。
名前だけを呼ぶ徹の声は俺を黙らせるには充分な威力があった。
「……。」
「…海斗…我慢しなくてもいいから。」
「我慢?」
「泣いても愚痴でもなんでもいいから……逃げるのだけは、するな。」
…どうして?
「逃げたって…また、つらい気持ちを味わうだけだ。」
「…時には、逃げるのも大切だと思うけど…。」
顔を伏せてそう言うと、腕を掴む手の力が強くなったのが分かった。
…徹の顔が見れない。
「そりゃ大事な時もあるけど……海斗は…逃げてばっかだ。」
「……。」
何も言い返せない。
確かに俺は、いつも逃げているだけだ。
他にどうすればいいのか分からない。
徹に引っ張られたまま連れて来られたのは、俺の部屋だった。
「入れよ。」
だから俺の部屋なんだけど…。
でもとても言い返せるような雰囲気ではなかったので黙って足を踏みいれた。
そのままソファーに座ったが、何をいえばいいのかもわからずただ床を見たまま黙っているしかできなくて。
そんな俺に徹はため息を一つついた。
「海斗…。お前は離れたがってたみたいだから何も言わなかったけど、近くにいるより遠くにいたほうが忘れられない事だってあるんだぞ?」
「え?」
遠くの…方が?
「俺が…そうだったから。」
徹はその先を言うのをためらっているかのように顔を伏せた。
徹が自分の事をこういう風に話すのはめずらしい。
いつも聞いてもらうのは…俺だったから。
「…俺はさ、中学の時、一度しか会ったことのない奴にずっと惹かれていたんだ。」
「一度…だけ?」
「そう。しかもその時、俺家出してて…。」
「家出!?」
つい大声を出してしまったが、仕方がないことだろう。
だって、考えられない。
徹の家族は皆、仲がいい。
何度か長期休みに遊びに行ったことがあるが、おばさんはいつも明るく笑っているし、お兄さんは穏やかな微笑を絶やさない。
唯一会ったことのないおじさんは、話を聞く限りではとても家族思いの真面目な人だ。
そんな、家出をするような事が起こったとはとても想像できない。
そんな俺の心の中を見透かしたように、徹はフ、と笑うと言った。
「今でこそうちの家族は仲がいいけど、昔は口を利かない、眼も合わせない、存在自体を否定しているかのような生活だったんだ。…いや、正確には昔のある一時期は、と言った方がいいかもしれない。ある問題が起こるまではどの家庭とも変わらない生活を送っていたから。」
初めて聞いた徹の生い立ち。
今の彼はとても幸せそうに毎日を過ごしているから、昔からそうだったんだろうと勝手に思い込んでいた。
「で、家にはいたくなくて、夜の街をブラブラしてた。」
え。
「夜…って…。」
「あ、別に危ない事はしてないぜ?ただ親切な見知らぬ人の家に、食事を作るのを条件に居つかせてもらってただけだから。」
見知らぬ人の家にフツーに居つくこと自体充分危ないと思うけど。
「そんな時、俺の話をただ聞いてくれた通りすがりの奴がいた。その時、すっごく気持ちが軽くなって、まだ頑張れるって思った。だから俺はすぐに家に帰ったんだ。そうしたら親父にこっぴどく怒られて…。すごく嬉しかった。まだ大丈夫だって、確信した。」
言葉を捜しながら、ゆっくりと昔のことを俺に教えてくれた。
そしてやっと俺は理解した。
どうして今の徹の家族が、あんなに幸せそうにしているのか。
彼らは、毎日を大切に、生きているんだ。
「俺は、話を聞いてくれたあいつに、一言お礼を言いたかった。でも、どれだけ探しても会えなくて。それでも彼を忘れる日はなかった。そしてある時気付いた。あぁ、俺は、あいつが好きなんだって。」
離れていたからこそ芽生えてしまった想いなのかもしれない。
徹はきっとそう言いたかったんだろう。
だから、必ずしも『彼』から離れることが正しいとは限らない、と。
『覚悟はできてんのか?』
徹に言われた言葉を思い出した。
あの時、すでに彼はこうなることを予想してたのかもしれない。
俺は聖也から離れたがっていたくせに、心のどこかで思っていたのかもしれない。
そんな事あるわけない。たとえ離れても聖也の隣はいつでも俺の居場所なんだって。
だからさっき、あの場所から動けなかった。
ショックだった。
俺が離れれば離れるほど、あの二人が近づく気がした。
そして俺は、たとえ聖也から距離はとれても心だけは置いていけないと分かってしまった。
むしろ余計に動けなくなるだけだ。
さっき、俺の心に湧き上がってきた物は、確かに……闇だった。
暗い暗い…恐怖だった。
「…離れることも…忘れることも…出来ないのか。俺は。」
「……。」
「徹。俺は、両親を事故で亡くした。」
突然話題が変わったことについていけなかったらしい徹はしばらく固まっていたが、何かを察したのか先を促すように俺の目を見てきた。
俺はもう、どうしたらいいのか分からずに、とにかく徹に聞いて欲しかった。
「俺だけは奇跡的に助かって、今ここにいるわけだけど…。その事故のショックで前後一週間の記憶がなくなってるんだ。」
「…なくなってる…?」
「そう。だから、俺の記憶の中では両親はまだ生きていて、気付いたらいなくなってた。」
「……。」
「そして何故か俺は、泣けなくなってた。」
「…どういうことだよ…?」
「わからない。多分、俺が覚えてない二週間の間に何かがあったんだろう。…これは、聖也に聞いてもおばさんやおじさんに聞いても、教えてくれなかった。」
あの二週間の間に何があったんだろう。
もうずっと考えてきたけど…。
「だから俺は怖い。」
特別な人を作るのが怖い。
その人を再び失った時、俺はどうなるか分からない。
「またいつか…俺が覚えていない間に何かを失う気がする。それに、もし俺の気持ちが聖也にバレてしまったらどうなる?俺を受け入れてもらえるとは思えない…。」
聖也は俺のことをそういう風には見ていない。
あんな目で…包み込むような目で誰かを見ている聖也は、知らない。
きっと、栗原しか知らない。
「もしかしたら幼馴染ですらなくなるかもしれない…。」
考えただけで震えてくる。
そしてそのあと、俺はどうなる?
俺は、どうする?
何か、大きな闇に取り込まれてしまう気がする。
それが何なのか…分からないけれど。
「この気持ちさえ消えれば……素直に聖也の幸せを願うことが出来ると思ったんだ…。」
「…。」
でももうすでに手遅れだったらしい。
こんなに…聖也が他の誰かを大切に思っていることに傷つくなんて思ってなかった。
俺は聖也から離れることも出来ず、かといって忘れることも出来ず。
「俺は…どうすればいい?」
こんなこと、徹に聞くのは間違ってる。
俺は甘えすぎだ。
でももうどうすればいいのか分からない。
「…どうして海斗はそんなに上原が好きなんだろうなぁ…。」
「…わから…ない。てか俺が聞きたい。」
「……海斗、人は一人では生きられないよ。」
一人では…。
…“独り”…では。
「誰かを好きになれるっていうのは…大切に思えるってのは、とてもいいことだし、必要なことだと俺は思うよ。」
「……。」
「すごく、無責任な言葉だけど、自分を恐れちゃダメだ。自分と向き合うのもきっとすごく大切なことだ。」
自分と、向き合う…。
「俺もあの時は逃げてたから…あの時、アイツにあえてホントに良かったと思ってるよ。」
「そういえば…その人とは、会えたのか?」
前、傍にいる奴だって言っていたからきっと会えたんだろう。
そう思った通り、徹は答えた。
とてもきれいに笑いながら。
「会えたよ。まだ…お礼は言えてないけど。」
「え?なんで…。」
「ん〜。言うタイミングを逃したというか…。でもいつか、必ず言うつもりだけど。」
徹は自分と向き合ったから、今こんな風に笑えているんだろうか。
…俺も、できるだろうか。
「……。」
聖也の幸せを…願えるだろうか。
徹は背筋を伸ばしてなぜかすがすがしい顔になった。
そして何かを思いついたようにこちらを振り返り、言った。
「なんかすっきりしたよ。……“ありがと”な、海斗。」
「それは、俺のセリフだって…。」
徹はそれからずっと、おかしそうに笑っていた。
だからこの時は、その言葉の本当の意味を、俺が知ることはなかった。