3章
Act.32
人の脳は、よくできていると思う。
だって、良かったことや嬉しかったことはよく憶えているし、たとえ忘れていたとしてもすぐに思い出す。
反対に嫌なことや悲しかったことはすぐ忘れようとするし、なかなか思い出せない事もある。
でも、一度思い出してしまったら、もう忘れることはできない。
少なくとも俺の場合はそうだった。
どうして俺は色々なことを忘れて…そして、色々なことを思い出してしまうんだろう。
俺の過去に、良かったことなんてあまりなかったのに。
◇◇◇◇◇◇
「もしかして、あなたも3年生?」
3年の教室へ向かって歩いている時、ふと思い出したようにそう尋ねられた。
まぁ、明らかに午後の授業が始まっているこの時間に外をウロウロしている生徒がいたらそう思うだろう。
「はい。面談がある人以外はもう今日は終わりなんです。」
本当は家に帰って勉強をしろ、という意図があるんだろうけど、それを実行してる奴は数えるほどしかいない。
俺みたいにのんびりしているか、夏まで部活がある奴はそのまま部活をしているか。
ちなみに野球部はすでに引退している。
「そう。じゃあ色々悩み多き時期なのね。」
その言葉が、さっきまで桜をじっと見上げていた俺の行動から出たものだと分かった時、何故だか恥ずかしかった。
傍から見たらどんな姿に見えたのだろうか。
「うちの子もね、ここに来てから色々悩んでるみたいなの。悪い意味ではなくてね。あの子が自分の意志で考えて、決めて、行動する事なんて少なかったから…私は逆にとても嬉しいの。」
あぁ…、と思った。
あぁ…この人は、“母親”だ。
俺はもう、夢の中でしか感じる事は出来ないけれど、この人が出している空気はとても温かい。
「学生のうちに沢山悩んで沢山学んで…。それがきっとこの先何かの役に立つ時が必ずあるわ。だからあなたも…。」
「母さん!」
話しながら教室の近くまで来た時、後ろから聞き覚えのある声がした。
「…栗原?」
「あら、お友達だったの?」
パタパタ走りながらこっちにやってきたのは栗原だった。
そういえば今日は面談があるって話してた気がする。
「うん…。クラスメイトなんだ。それよりどこ行ってたの?もう10分以上遅刻だよ?」
「迷ってたのよ。この学校広いから。そうしたらちょうどこの子に会ってね。案内してもらったのよ。」
「え、そうなんだ…。ごめんね、ありがとう…。」
「いや…、別に。」
「母さん、先生待ちくたびれちゃうよ。早く行こう!」
めずらしく、やけに強引に栗原がここから離れようとしている気がする。
いや、先生が待っているから急いでいるんだろうけど…。
なんだろう。
この、違和感。
「もう、何をそんなに焦っているの。道に迷った時点で先生には連絡を入れて順番を変えてもらったから大丈夫よ。」
「そうじゃなくて…。もう!とにかく早く!」
「あ…、ちょっと、待ちなさい!和弘!」
―――和弘!待ちなさい。
「もう…。ごめんなさい、ありがとう。」
「え、あ、いえ。」
謝り方が2人そっくりで、おかしかった。
そしてそのまま栗原を追う後ろ姿を見ていると、変な感じがした。
―――和弘!待ちなさい。
………同じような言葉を、昔聞いたような気がする。
あれは、いつだった?
どこだった?
とても、昔だった気がするのに。
「……思い出せない。」
思い出さないといけない気がする。
「………最近、そんな事ばっかだな…。」
昔の記憶がなかった時。
よく既視感を感じる事があった。
見た記憶はないのに、聞いた記憶はないのに、どこかで同じ体験をした気がする。
そして過去を思い出した時、それは実際体験していたことだったと分かった。
「………。」
昔……?
一瞬、頭の中で何かが弾けた。
……夜。
つき…。
………小さい男の子と、おかあさん…。
「海斗?」
思考の中にはまっていたら、急に後ろから肩を叩かれた。
必要以上にびくっと反応してしまって、しまったと思いつつ相手の顔を確認して、更にしまったと思った。
俺に話しかけてきたのはあろうことか聖也だった。
案の定びっくりした顔からだんだん険しい表情になっていく聖也に、自業自得だけどため息をつきたくなった。
とても出来なかったけど。
「…何かあったのか。」
もはや聖也も疑問形ではなくなってるし…。
適当にごまかすなんてこと……とてもじゃないけど出来ないだろうな…。
「…や、今栗原と会ったんだけど…。」
「栗原?そういや今日面談とか言ってたな。」
「うん。」
「………で?」
眼光が、怖いって。
「…栗原のおばさんが学校内で道に迷ってて、俺がここまで案内したんだよ。」
「学校内で迷子…。」
いや、俺達はもう3年目だから迷うことはないけど、初めてだったら確かに分かりにくいと思うぞ。
無駄に広いし。
「まぁ、それはいいとして、どうしたんだ。」
どうしたって…。
言われても…。
なんて説明したらいいんだ?
栗原のおばさんを見てたらデジャヴを感じました?
昔会った事があるような気がします?
そんなこと言ったってなぁ…。
「…海斗?」
「………。」
言葉を探して無言になった俺に焦れたのか、聖也は俺の腕を掴んで空き教室に入った。
掴まれた腕に色々な意味で緊張しつつ、俺は黙って引っ張られていくしかなかった。