3章



Act.30


「鈴森、進路希望は。」
「…まだ書いてません。」
「もう随分待ったんだがなあ。」

古典兼担任は、頭をぼりぼり掻きながら俺を見上げる。
そんなこと言われても、書けないもんは書けない。

まだ朝のHRが始まる前の職員室。
部活をやっていた奴が、部室の鍵を返しにきてる以外は生徒の姿がない。
呼び出しを受けたのは俺だけみたいだった。

「鈴森。今すぐ決めろとかそういうわけじゃない。でも、そろそろ自分の将来について真剣に考えないと、後で後悔するぞ。」
「……。」
「具体的に考えられないなら、とにかく進学するのか就職するのか、それだけでも考えておけ。」
「進学か、就職…。」
「まぁ今のところ進学を希望する奴が多いけどな。昔は大学なんて行きたくても行けないような…。」
「就職希望の奴もいるんですか?」

話が長くなりそうだったから適当な質問をしてみると、担任は少し不満そうな顔をしながら答えてくれた。

「まぁ、誰がそうとは言えないけどな。これだけの人数がいるんだ。そりゃ進学希望も就職希望の奴もいる。」

就職…か。

「とにかく来月から三者面談も始まるから、今月中に考えておいてくれ。」
「………分かりました。」

ぺこりと頭を下げて職員室を出ると、廊下には沢山の生徒が話したり走り回ったりしている。
この中の何人がこの先、大学に進むのか。
この中の何人がこの先、就職の道を選ぶのか。

高校生なんてまだ学生で。
これから自分が社会に出ていくことを考えなければいけないなんて、中学生の頃は思ってもいなかった。





でも。




昔から考えていたことはある。
授業参観の時。
高校進学を考えた時。
中学の卒業式の時。

俺の周りには聖也がいて、おばさんがいて、おじさんがいて。


自分は一体、いつまでこの暖かくて優しい人達に甘えていらえるんだろう。
一体いつまで、頼りきりでいていいんだろう。


俺は、上原家の養子に入ったわけではない。
親と繋がっている唯一の名前だけは、このまま持っていたかったから。


でも、だったら尚更。
いつまでもこのままではいけないんじゃないか。


あと一年もしないうちに俺は高校を卒業する。




もしこのまま就職する道を選んだら……。






◇◇◇◇◇






「おっかえり〜。何だって?」
「とりあえず進学か就職かだけでも考えとけって。」

ずっと子供のままでいたい。
そんな気持ちが、今はよくわかる。
“今”が楽しいと、きっと誰もがそう思うんだろうけど。

「就職〜?そうか、そんな選択肢があったのか。俺はついつい大学のことしか考えてなかった。」
「それって、いわゆる金持ちの思考なんだってどっかで読んだことある。」
「えっ。」
「嘘だよ。徹も結構騙されやすいんだな。」
「……海斗にだけは言われたくねぇよ。」

どうしてこのままではいられないんだろう。

「…海斗、進学するんじゃないのか?」

聖也が少し、驚いたような声を出した。

「ん?ん〜…てか、今までそんな考えたことなかったし…。」
「考えたことなかったって…。2年の時も進路調査あっただろ。」
「いや、あん時はまだそこまで真剣になってなかったから。」

正直に言おう。
何も考えずに適当に書いた。

「…海斗は進学するんだろうって、親父たちも考えてる…。」
「………。」

一体いつそんな話をしたんだ。
でも、優しい人達だから。
絶対にそう言ってくれるだろう事は分かっていた。

分かっているからこそ。

「……まだ、分からない。」
「分からないって…海斗…。」
「おらおらチャイムなったぞ!席につけー!」

聖也が何かを言いかけた時、タイミングよく担任が教室に入ってきた。
俺は視線を逸らすと、そのまま何も言わずに聖也から離れた。



きっと就職する道を選んだら、俺はあの家を出る決意をするだろう。
いつまでも甘えているわけにはいかないから。

でも、もう少し。
与えてくれたあの優しさの中にいたい気もして。


俺が本当に望んでいる事は、何だろう。






◇◇◇◇◇◇






仲の良い親子が二人で歩いている。
小さい男の子が母親に向かってにこにこと何かを話している。
男の子の頭を撫でながら、母親は話を聞いている。


そんな……懐かしい夢を、見た。






「先生。」

次の日。
俺は進路希望調査の紙を持って担任の所へ向かった。
無言で差し出された手にその紙を渡すと、何故か担任は大きなため息をついた。

「…なんですか、それは。」

まるでこうなるのが分かっていましたとでも言いたげな、その顔も。

「来月の三者面談が憂鬱だ。」
「どういう意味ですか。」

仮にも教師が、生徒の目の前でそれはないだろう。

「お前が中学3年だった頃の担任は、俺の友人でな。」
「え。」

それは……初耳だ。

「土壇場までそうとう揉めたらしいじゃないか。」
「………。」

あれは…確かに何も言わず勝手に希望校を決めた俺も悪いけど。
一番の原因はホントのギリギリにあっさり第一希望校を変えた聖也だ。
といってもそれを俺が知ったのは相当後のことだったけど。

「まぁとにかく、俺はお前の担任としてやれるだけの事はするが…お前も覚悟して三者面談に臨めよ。」

そう言って笑う担任の手の中にある紙から見えるのは、“就職希望”とだけ書かれている文字だった。