2章



Act.23


「なんで…なんでそんな顔してんだよ海斗…!」

そう言って俺の両腕を掴んで揺さぶってくる徹に、なんて答えればいいんだろう。
“俺”は海斗であって海斗ではない。
海斗の中の一部でしかない。
いつか海斗の中で溶け合って“俺”はいなくなるはずだったんだ。
自分の過去をちゃんと受け止めて、前を向いて歩けるようになれば俺たちは1つに戻れるはずだったんだ。

“俺”は笑えない。
海斗が泣き方を忘れてしまったように、“俺”は笑い方が分からない。
“俺”は、負の感情の塊だから。

「……徹、大丈夫…。大丈夫だから。」

本当は大丈夫なんかじゃないけど。
でも今の“俺”にはそういってやることしか出来ない。

海斗は今、自分の過去と戦っているから。

「…っ、大丈夫じゃねぇだろ!」

徹はそう言うと力の限り“俺”を抱きしめてきた。
…徹が海斗を想う気持ちが、流れ込んでくるようだ。
今までずっと海斗を通して見ていただけだから、こうして触れてみると改めて実感することばかりなんだな。

「海斗、何で泣いてんだよ。なんでそんな……そんな顔してんだよ…。」

震える声を聞きながら、“俺”は考えていた。
今、自分は何をすべきなのか。






◇◇◇◇◇◇






「……おはか…?」

ぎゅっとまだ男の服を掴んだまま海斗はそう呟いた。
目の前には実際に見た事はなかったけど、テレビでよく見た大きな石がある。
そこに書いている名前は全く知らない人だけど。

「そう…君のお母さんのお墓だよ。」

じっと墓石を見ていた海斗に、男は躊躇いなくそう言った。

「……え?」

当然言われた海斗は一瞬何を言われているのか理解できなかった。
お母さんのお墓…?
そんなはずない。
だっておかあさんはまだ病院に…いるはずだ。

「……君のお母さんはね、あの人ではないんだよ。このお墓に書いている、この人なんだよ」

ふっと海斗の腕の力が抜けた。

「…おじさん、何言ってるの…?」

ようやく墓石から目を逸らして男の顔を仰ぎ見た。
相変わらずその顔には笑みが浮かんでいて。
思わず一歩後ずさった。

「…なんで逃げるの?」

ぐっと腕を掴まれて、海斗は初めて恐怖が湧いてきた。

「……僕のお母さんは、この人じゃない…よ。」

それでもそれだけは譲れない。
今までずっと一緒にいたお母さんとお父さん。
自分を育ててくれたのは、あの人たちだ。

「育てていたのはあの2人かもしれないけどね。でも君を産んだのはこの人なんだよ。」

意味が、分からない。
何を言っているんだろう、このおじさんは。
ただただ混乱している海斗は、無意識に首を振っていた。
そんなこと、信じないと言っているように。

「君はあの2人に拾われたんだよ。どうしても育てる事が出来なかった産みの親が、誰かに見つけてもらえることを祈って公園のベンチに置いた君を…彼らが拾ったんだ。」
「…ひろっ…た?」
「そう。『海斗』と書いた紙と一緒にね。」

頭の中がぐるぐるして海斗はもう限界だった。

「うそだ!そんなのうそだ!」
「嘘じゃないよ。」
「絶対嘘だ!」

ぶんぶん頭を横に振りながらそう叫ぶ海斗の頬には涙が伝っていた。

「…嘘ではないよ。だって、君の本当の父親は俺だからね。」
「――…え?」

思わず顔を上げた瞬間、なぜか目の前には空が見えた。
そして、背中に痛み。

「いたい…。」
「教えてあげるよ。君が知らなかった事、全部。」

そう言ってうっそりと笑った男の顔を見て、自分が地面に倒されている事をようやく海斗は知った。
何故か男が自分の体を押さえつけていることも。
いつの間にかカラスの鳴き声も聞こえなくなっていた。
真っ暗で、無音の世界。

「俺はね、元々男にしか興味が湧かない性癖だったんだ。…つまり、男の人しか好きにはなれなかったんだ。女の人には何も感じない、そんな、周りから見たら普通ではない奴だったんだよ。」

そんな事言われても海斗にはさっぱり理解が出来ない。
だって、男の人を好きになるのがなんでいけないの?
自分だって聖也の事は大好きで。
それがおかしいなんて誰も言っていなかった。
そんな考えが相手にも伝わったのか、男は苦い笑みを浮かべた。

「まだ難しいかもね。きっと、海斗が思っている好きと、俺が言っている好きは違うから。」

好きに違いなんてあるの?

「だから、俺の子供が生まれるなんてことはある意味奇跡だったんだ。」

女には興味がない、興味が湧かないこの体では、到底子供なんて出来ないはずだった。

「でもお酒を飲んで、ある人に告白をされて…その勢いで、生まれて初めて女の人とのセックスをした。そうしたらそれからは女の人とも出来るようになった。驚いたよ。心と体はまったく別物なんだって知ったときは。」

まるで海斗の事を忘れているかのような遠い目をして男は話を続けている。
でもその半分も海斗は理解が出来なかった。

「それから何人もの人と関係をもって、あるときこの人に出会った。俺は結婚をしてもいいと思った。もしかしたら、この人なら好きになれるのかもしれない。自分も女の人を好きになれるかもしれない…そう思った。」

そういって墓石を撫でるその目には、確かに愛しげな光があった。

「プロポーズして結婚して…そしてしばらく経った頃、子供が生まれた。男の子だ。始めはただ純粋に喜んだよ。幸せの象徴みたいな存在だからね、子供というものは。」

海斗はだんだん息苦しさを感じるようになってきた。
何に対するものなのか分からない。
子供特有の直感かもしれない。
早く逃げなくてはいけないと思った。
でも、体が動かない。

「俺たちのバランスが崩れたのはそれから数ヵ月後だ。彼女に俺の性癖がばれた。あの人はどこか潔癖症なところがあったから、すぐに俺を気持ち悪いと罵った。もうショックだったね。その時俺は、本当に彼女に心を奪われていたから…。」

苦しい。
怖い。

「彼女に俺の性癖をばらしたのは、過去に寝たことのある別の女だった。そいつは腕に赤ちゃんを抱えていた。俺の子だと言って。この人は俺に裏切られたと思ったんだろう。すぐに自分の赤ちゃんを連れて家を出て行ってしまった。……そう、それが海斗だよ。」

もう、聞きたくない。
全てを理解することはできないけれど、耳に入ってくるだけで体が震えてきてしまう。

「でも両親も親戚もいないこの人には行く当てもなくて、かといって海斗を1人で育てる力もなくて。そして公園のベンチに海斗を置いて…そのまま姿を消した。俺は彼女を探して探して、見つけたのはつい最近。その時は、もうこんな姿だった。」

月が、見える。

「もちろん海斗の事も探したよ。見つけた時は、すでにあの2人の手に渡ってしまっていたけれど。……俺は結局、すべて間に合わなかったんだ。」

そろりと男の手が動いた。

「海斗。今までずっと探していたんだ。ようやく見つけたと思ったのに……俺は本当にどうしようもない奴だよ。まだこんな子供に、しかも実の息子にまで体が反応してしまうんだから…。」
「っや…!」

突然海斗の服の中に入り込んできた手は、そのまま海斗の体を弄っている。

「やだ…やだやだ!」
「何も考えずにいれば、痛い思いはしないで済むよ…海斗。」

そう言って笑う男の目が、怖くて。
涙が後から後から出てきてしまう。

縋るように周りを見渡してもそこにあるのは闇ばかり。

暗闇の中、見える光は月の輝き。
海斗に触れるのは上から見下ろしてくる圧倒的な強い力。
押しても押してもびくともしない。
怖くて怖くて声も出なくて。

「や…だ。」
「……そうだ、もう1つ、教えてあげる…。」

海斗の服の中で動いている手はそのままに、耳に口を近づけて、囁く様に男が言った。

「君を育ててくれたあの2人を殺したのは…俺だよ。」

その瞬間、海斗の思考が停止した。

「あの車にぶつかったトラックを運転していたのは、俺だよ。」

海斗の脳裏に蘇ったのは、車の中でのお父さんの笑い声と、お母さんの優しい声。
そして……最期の笑顔。

その2人を……殺したのは…。

だらりと力が抜けた海斗の手に、石の感触がした。