2章



Act.22


「……海斗?」

聖也が戸惑ったような、驚いたような声で俺を呼んでいる。
そりゃそうだろう。
この10年間、海斗は何があっても泣かなかったから。
両親が実の親ではなかったことを知ったときですら涙は出なかった。

…いや、違うな。

海斗は泣かなかったんじゃない。
ただ泣けなかっただけだ。

10年前、あの事故で2人を亡くした後に知った真実は7歳である海斗が受け止めるには大きすぎるもので。
生きることすら迷ってしまったあの時に海斗が選んだのは忘却だった。

心の奥にある“悲しみ”“憎しみ”“恐怖”。
それらを記憶とともに封じ込めることで自分を守ろうとした。

そのきっかけになったのが聖也の一言。

聖也は幼いながらに海斗が何かに怯え、壊れてしまうことを感じ取っていた。
だから言った。

『わすれて。』と。

そして生まれたのが“俺”。
“俺”は元は海斗の一部で、心のもっとも奥底にある人間の感情の核みたいなものだ。
それは誰かを憎むものだったり、悲しみによって流す涙だったり。
それと同時に喜びや楽しさといったものだったり。
それらをすべて海斗は封印しようとしてしまった。

もう自分が傷つかないように。
もう何も見ないように。

でも。

誰かを大切に思うという気持ちだけは置いていけなかった。
母親や聖也に言われた“笑って”ということも。

“俺”は憎悪や悲嘆とあの時の記憶だけを抱え込み海斗の中で守ると決めた。
海斗が真実を知っても壊れなくなるその時まで。

そして海斗はあの時の事を忘れ、憎しみを忘れ、泣くことを忘れ。
この10年間、どこかぽっかりと空いたものを感じながら生きてきた。

「……海斗、ごめん…。」

でも聖也はそんなこと知っているはずもなく。
今まで何があっても泣かなかった海斗が涙を流したことに驚愕していた。
その瞳には悲しみが広がっている。

「……ごめん。もう…こんなことしないから…。」
「……え?」

そう言ってすっと離れていく聖也に、何か焦燥感を感じる。
違う、聖也。
海斗は聖也が嫌だったんじゃない。

「…ごめんな。」
「っ聖也!」

違う。
この涙は違う。
違うのに。

“俺”が何かを言う前に聖也は部屋を出て行ってしまった。

「…あれ、おい上原っ………海斗?なんかさっきから声が…。」

聖也と入れ違いに部屋に入ってきた徹は、“俺”を見て驚いたように立ち竦んだ。

その時徹が見たのは、人形の様な海斗の表情。
そう、それはまるで、初めて公園で会った時の様で――…。

「…………海斗…?どうして…。」

震えている声に、返す言葉は見つからなかった。






◇◇◇◇◇◇






「しんじつ…?」
「本当の事って事だよ。」

目の前で笑っている人はとても優しそうに見えるのに、その目を見るとどこか落ち着かなくなる。
一言で言ってしまえば怖いのだが、海斗はこの時感情が麻痺していて自分が感じている恐怖を理解する事が出来なかった。

「君の両親の事はよく知ってるよ。」

ただ“両親”という言葉に反応して。

「おいで。君が知りたい真実を教えてあげよう。」

そう言って差し伸べてきた手に、躊躇いながらも腕を伸ばした。



驚いたのは翌日。
朝になってみると海斗がいたはずのベッドには、誰もいなかった。













どうしてついて来ちゃったんだろう。

あれからまた一度寝て、昨日より幾分目に生気が戻ってきた海斗は昨日の夜の事を思い出し顔を青くした。
今自分は見知らぬ人と見知らぬ建物の中にいて、その見知らぬ人と2人きりで何をするでもなく顔を突き合わせている。

どうしよう。
だって、知らない人について行っちゃいけないって今まで何回も言われてきた。
どうしようどうしよう。

「…海斗君。」

突然その男の人が自分に向かって呼びかけてきたため、海斗はビクッと体を揺らした。
その反応は明らかに怯えている様を表していて…男は何故か嬉しそうに笑った。

「おじさん…だれ…?」

警戒心を露に昨日も呟いた言葉は確かに届いていたはずなのに、男はそれに対する返答はしなかった。

「…おいで。」

ただそう言って手を差し伸べるだけ。

「……おかあさんと、おとうさん…は?」

2人の事を知っていると言っていた。
もしかして、今2人がどこにいるのか知っているのだろうか。
頭ではそんな事ありえないと分かっていた。
けれど、聞かずにはいられなかった。
その小さな希望に、縋りたかった。

「2人はもうここにはいないんだよ。」

それでも現実は否応なしに海斗の心を傷つける。

「どうして…?ぼくはこんなに元気なのに、どうしておかあさんとおとうさんはいないの?」

認めたくない。
2人にもう会えないなんて。

「だって………。」

信じたくない。
2人が…。

「……2人は死んだんだから。」

死んだなんてこと。

枯れていたはずの涙が再び頬を伝って流れてきた。

「君の両親の事はよく知ってるよ。…お母さんとお父さんのこと、知りたくはないかい?」

男はまるで機械のようにそれしか言わない。
顔には恐ろしいほどの微笑を浮かべたままで。

「……おかあさんと、おとうさん…。」

そして海斗も、その言葉だけに反応する。
ひたすら現実から目を背けるかのように。

「知りたくない?」
「…ふたりとも…もう動かないの…。もう、話せないんだって…。」
「そうだね。」
「どうして…?」

答えは分かっているのに。
何度聞いても自分の望んでいる現実なんてやってこないのに。

「おいで。君が知りたい真実を教えてあげよう。」

自分が知りたい真実なんて、絶望しかないのは分かっているのに。
差し伸べられた手に、結局海斗は縋ってしまった。
その先には暗闇しかなかったのに。






海斗が連れて来られたのはあれから車で数時間かかる場所だった。
それから更に歩いて歩いて、たどり着いた場所はとあるお寺。
人が誰もいなくて空はもう薄暗くて。
どこからともなくカラスの鳴き声が聞こえてくる。
思わず隣にいた男の人の服を掴んでしまった。
その時男は初めて穏やかな、愛しそうな笑顔をしていたけれど、海斗は下を向いていたためその顔を見ることはなかった。

そしてたどり着いた場所は…お墓だった。