2章


「海斗!海斗!?」

ふっと意識が浮上したときに聞こえたのは聞き覚えのある声。
ずっとずっと俺を通して聞いてきたその声。
もう“俺”は出てくるつもりはなかったのに…。
いつか自然に1つに戻れると思っていたのに…。

「……また…出てきてしまった…。」
「…海…斗?」

顔を覆って、10年ぶりに流した涙は決して望んでいたものではなかった。



Act.21



「海斗。準備は出来た?」
「うん!」

小さいリュックに服やおやつを入れて元気に笑うのは今年小学校に入学した海斗だ。
といっても今日は学校に行くわけではない。
隣でニコニコ笑っている母親とそんな2人を嬉しそうに眺めている父親の3人で旅行に出掛けるのだ。
実は今まで一度も家族旅行に行ったことがなかったため、海斗にとっては初めての体験になる。

「ねぇねぇ、ここからどのくらいかかるの?」
「そうね、車で4時間くらいかかるわね。」
「よじかん!僕そんなに長いあいだ車にのったことない!」

全てが新鮮な世界で、海斗はただただ嬉しそうにはしゃいでいた。

「あのね、あのね、聖やにおみやげあげるねって約束したの!」
「海斗は聖也君が大好きなのね。」
「うん!ずっと一緒にいるって約束したの!」
「そう。よかったわね。」
「うん!」

まだ純粋に相手のことが好きだと言えたこの時期が、もしかしたら一番幸せだったのかもしれない。






そして事故が起こったのは、それから2時間後。

「お母さん、眠くなってきた…。」

目をこすりながらも懸命に起きようとしていた海斗は、こくりこくりとすでに頭が揺れている。

「もう少しかかるから、少し寝てなさい。」

優しくそう言う母親の言葉に安心して夢の中へ入りかけた時だった。

「うわぁぁっ!」
「きゃあぁぁぁぁ!」

2人の叫び声が聞こえたと同時に体が何かに包まれた。

そして大きな音と、ぐるぐる回る感覚。
次第に息苦しさと恐怖が意識を薄くしていく中、海斗、と囁く様な母親の声に、自分を包み込んでいる暖かい存在が誰なのかを確認し、安心して暗闇に身を委ねた。












次に目が覚めたのは翌日だった。
真っ先に目に映ったのは聖也。
そして真っ白な部屋。

「海斗!」

泣きそうな聖也の声が聞こえたすぐ後にはおばさんもやってきた。

「大丈夫?海斗君…。……よかった…。」

こくりと頷いた海斗に涙を浮かべる聖也とおばさんを見て、自分がいるのが病院だと7歳である海斗にも理解が出来た。
でも、どうして自分が病院にいるのかが分からない。
自分は確か車に乗っていたはずだ。
そう。
お母さんとお父さんと一緒に…。

「…あ…、おか、さんと…おと…さんは?」

たどたどしくそう聞いた海斗に返ってきたのは、おばさんの泣き声だけだった。






お母さんとお話をしなさい、と言われて行った部屋には、頭にも包帯を巻かれている母親の姿。
機械の音がやけに耳につくその部屋にいる母親は、じっと目をつぶったまましばらく動かなかった。

「……おかあ…さん?」

ぽつりと呟いたその言葉がやけに部屋に響いて、海斗はふいに泣きたくなった。
何が何だか分からない。
だって、自分たちはただ皆でお出かけをしていただけだ。
それなのにもうお父さんには会えないという。
お母さんとも会えなくなるかもしれないという。
海斗にもその言葉の意味は理解できる。

つまり、死んでしまうという事だ。

どうして?
どうして?



気付けば海斗の目からは涙があふれ出ていた。



「…か、いと…。」
「っ、おかあさん…!」

そっと海斗の頬に手を触れてうっすらと目を開けた沙知子に、ちょうど部屋に入ってきた楓は驚いたように駆け寄った。

目を覚ます事はないだろうと言われていた。
もし意識が戻ることがあってもそれは本当に最期の時になるだろうとも。

「お願い…海斗、泣か…ないで…。」

目を覚ました母親を見ても、海斗の涙は止まらなかった。
感じていたのかもしれない。
とても悲しそうに母親を見ている楓を。
とても辛そうに…悲しそうに微笑を浮かべている母親を。

もう、2度と、会えなくなるかもしれない――。

「だって…。」

ぼろぼろ涙を零しながら…それでも決して声には出さない海斗に、沙知子はふと微笑みを消した。

「海斗…笑っていて。あなたは…幸せにならなければ…ならないの…よ。」
「しあわせ…に?」

独りでどうやって幸せになれるの?

「そう…。かえ…で、海斗のこと…おねが…い。」
「沙知子…。」
「ごめんね…海斗…。ごめん……泣かないで…。」

そう言いながら、一瞬見せた笑顔が、海斗の心に深く焼きついた。
そしてゆっくり目を閉じた後、再びその瞼が開く事はなかった。


事故が起こってから約1日で、海斗は両親を失ってしまったのだ。


2人は死んでしまった。
頭では理解できても実感なんて湧かない。
だって昨日まで自分のすぐ隣で話して笑って動いていた。
手を伸ばせばすぐ届くところに2人の存在はあった。
それなのに…。


どうすればいいのか分からない。
これから自分は何を支えにしていけばいいのかが分からない。

…呆然としていたそんな海斗の傍に、聖也はそっと寄り添っていた。






泣きつかれて眠った海斗を病室に寝かせて楓や聖也は一度病院を出た。
やらなければいけないことが沢山ある。

沙知子や隆生や…海斗のために。






◇◇◇◇◇◇






カツン、カツン、カツン。

静かな夜の病院。
廊下に響き渡る足音はある部屋の前で止まった。
足音の主である1人の男は躊躇いなくドアを開いた。

「……おじさん、だれ?」

うっすらと笑みを浮かべているその男に、タイミングが良いのか悪いのか、目が覚めていた海斗はそう尋ねた。

「…君が、海斗君だね?」

質問には答えず、逆に質問を返した見知らぬ男にこくんと頷いた。


「…海斗君、おいで。君に、真実を教えてあげる。」


そういって手を差し伸べた男の目には、正気ではない光が宿っていた。