桜の木の下で
3.
夢を見た。
その中で俺は誰かと一緒に居て。
相手の顔は見えないけど、俺は笑っている。
なぜか、悲しそうに。
目の前には一本の桜の木。
満開に咲き誇った花が風に吹かれて散っている。
俺とそいつは顔を見合わせて何かを話しているのに、霧がかかったようにぼやけている。
次の瞬間、桜の花はすべて散って、季節が変わった。
雪が降っている。
それでも桜の木はそこにいて、俺たちはその木を見上げている。
やがて相手は俺から離れていく。
俺はその場から動かない。
相手の背中が消えていく中、風が吹いて…。
世界が揺れた。
◇◇◇◇◇
起きた瞬間見たものは、俺の目の前で土下座をしている男の姿だった。
「……何事?」
まだ頭が覚醒しきっていないこの状態で、涼夜のその行動を理解することはできなかった。
「ごめんさない!」
「…何が?」
まだ半分夢の中にいるせいで声に抑揚がなかったのだが、それが怒っていると涼夜に勘違いさせてしまっているらしい。
彼はひたすら謝っている。
「いくら酔ってたからって、いきなりあんなことするなんてどうかしてました!」
そのことを聞いてやっと思い出した。
そうだったそうだった。
いきなりキスされて襲われそうになったんだった。
頭の中でポンっと手をうった俺はまじまじと涼夜を見た。
まだ土下座しているから顔は見えないけど。
確かに昨日は若干怒ってはいたけどもう今となっては未遂だったし、どうでもいいかとか考えている俺がいる。
かなり楽天的な性格らしい。
「あ〜別にいいよ。なんか被害があったわけでもないし…。」
「あれは充分被害にあったというんです!!」
やっと頭をあげたと思ったら怒られた。
「はぁ…。」
「もっと危機感を持ってください!」
お前が言うなよ…。
一気に力が抜けた。
「じゃぁ一つ聞いていい?」
そこまで言うなら聞いてやろうじゃないか。
昨日はやめようと思ったがこの際だ。
「仁って誰?」
「…え?」
やっぱりやめときゃよかったか。
涼夜は顔を上げた状態のまま固まってしまった。
でももう言ってしまったし、なぜかものすごく気になってしまったから、俺も引かなかった。
「寝る直前にそう言ったじゃないか。どうして仁って…。俺とそいつを間違えたのか重ねたのか知らないけど…それで俺はキスされたわけだし?」
「……。」
「それに昨日、割れた皿とコップを見つけたよ。」
「…ぅ…!」
そこまで言うと、涼夜は頭を抱えた。
しまった。
ちょっといじめすぎたか。
「……。」
「……。」
「まぁ…言いたくないならいいけど。誰にだって触れてほしくない事はあるんだろうし。」
結局は引いてしまうんだから聞いても意味なかったか。
そう思って他の話をしようとした俺に、涼夜は首を振った。
「言いたくないんじゃありません。…むしろ、聞いてくれますか?」
予想外の展開だった。
そのあととりあえず朝ごはんを作ってくれたので、ありがたく頂いて、着替えを貸してくれたので着たら、何故か外に連れ出された。
夜と朝とでは随分景色が変わってくる。
空を見ると快晴だ。
仁って人の事は話題にのぼらなかったが、食事をしながら色々聞いた。
今日はクリスマスなんだそうだ。
という事は昨日はクリスマスイブということで…。
冬だろうと思っていたが、まさかそんな行事真っ最中の日だったとは。
どうしてそんな日に俺は一人で歩いていたんだ…?
「俺が優さんを見つけたのはここです。」
ふいにそういって立ち止まった場所は川沿いの道。
すぐ隣を見れば普通の住宅地だ。
ただ他の風景と違うところが一つ。
目の前に、たった一本だけ、大きな木が生えていること。
「これは桜の木です。」
太い木に触れながら涼夜は静かに言った。
今は真冬だから当然花は咲いていないし一枚の葉もついていない。
それでも何故か吸い寄せられていった。
フラフラとその木に近寄りながら、不思議な感覚に襲われる。
きれいで、切なくて、泣きたくなるような…。
「…昨日、同じ目をしていました。」
「え?」
涼夜は桜の木を見上げながらポツリポツリと口を開いた。
「フラフラと歩いているのに、視線だけはこの木に向いていた優さんが気になって、つい声をかけてしまった。…俺の方を向いたその瞬間の顔が、とても悲しそうに見えました。今と、同じ顔です。」
悲しそうな…顔?
「それは…涼夜も…だったよ?」
「…俺?」
ようやく桜から目を離した涼夜は驚きに満ちていた。
自分でも気付いていなかった事を指摘されたかのように。
実際そうだと思っていたんだが、どうやら違ったみたいだ。
「どうして優さんは分かったのかなぁ…。俺、ポーカーフェイスには自信があるんですよ。どんなにつらくても…どんなに悲しくても笑っていられる。今まで誰も、気付いた人はいませんでした。」
「…じゃあ、昨日、本当に何か悲しいことがあったわけだ。」
「あ。」
今更手で口を押さえても遅い。
「…。」
「…。」
「……昨日、振られました。」
「………そ、か。」
なんとなく予想してはいたから驚きはしなかった。
そしてきっと相手は…。
「仁とは一緒に暮らしていたんです。昨日の、あの時までは。突然別れを告げられるまでは。」
それで昨日の、あの悲しげな目の理由が分かった。
「……相手は…男でしたけど、俺は…俺たちは確かに想いあっていたはずだった。俺はいまだに、どうしてあんなことになったのか、全く分かりません。」
どれだけその仁って人を想っているのかが伝わってくるようだった。
その表情、言葉から。
俺は黙って桜の木を見上げた。
この桜は一体何年の時をここで過ごしてきたんだろう。
今まで何人の人がこの桜を見てきたんだろう。
…俺は今までに、この桜を見たことがあったのだろうか。
この、一本の桜を。
『他に好きな人ができたんだ。』
――…え?
「だ…れ?」
「優さん?」
今、確かに何かが聞こえた。
耳というよりは、頭の中で響いた感じで…。
それは確かに男の声で…でも…。
確実に知っている。
俺は、この声を、知っている。
「優さん!!」
「っ!」
突然肩を掴まれた俺は、一気に現実へと戻された。
それと同時に、今考えていたことがパッと頭の中から消えてしまった。
「あれ…?」
「…大丈夫ですか?なんか…すごく目が虚ろになってましたけど…。」
虚ろって…。
「何か今、思い出したような気がするんだけど…。」
「何を?」
「うーん。忘れた。」
ここは笑うところじゃない。
「でも、ちょっと焦りました。今にも優さんが消えてしまいそうで。」
「そんな人を幽霊みたいに…。」
「分からないですよ?実際名前と歳しか知らない訳だし。」
「………おどすなよ。」
思わずお互い笑いながら冗談で話していたこの内容が、実はあながち間違っていなかったなんて、この時は二人とも、全く想像していなかったんだ。