桜の木の下で




1.



「ごめん。他に好きな人ができた…。」


クリスマスイブに別れを告げられた人は何人いるんだろう。

少なくとも、あの日あの場所で同じ体験をした人はきっと二人だけだろう。






◇◇◇◇◇





「…あなた、どうしたの?」
「………え?」

気付いたら、歩いていた。
降りしきる雨の中。

「雨…降ってんだけど……。どうして傘ささないの?」
「………。」
「風邪…ひくよ?」

どうして俺は…ここにいるんだ?
ここは…どこだ?

「………どうして…だろう?」

どんなに頭の中で考えてみても答は見つからない。
うっすらと霧がかかっているみたいだ。
掴めそうで掴めない、もどかしい感じ。

「どうしてだろうって……もしかして記憶がないとか言う?」

雨の中、傘もささずに歩いていた俺に声を掛けてきた青年…というにはやや幼い雰囲気の彼は、訝しげな顔をしながら、それでも心配そうに俺を見つめている。
その中に悲しみの色が混ざっているように見えたのは俺の気のせいだろうか。
そして無駄にかっこいい顔をしている。
おまけに俺より大分背が高い。

「……みたい?………いや、なまえ…」
「名前?」

ふ、と頭の中に浮かんできた言葉と数字。
きっとこれは俺の…。

「優(ゆう)…。俺の名前は優だ。苗字は…思い出せないけど…(きっと)19歳。」
「えっ!?年上…!?」

失礼な反応だな。
でも確証はないから何も言い返せない…。

「あ、えぇ〜と…とりあえず、うちに来ません?このままじゃホントに風邪引きますよ?」

俺が実は年上だと分かった途端、敬語に変わってしまった。
思わず口元に笑みを浮かべてしまうと、目の前の彼は言った。

「俺、年下には絶対敬語使わないけど、年上にはたとえどんな人にも敬語使うんです。そう躾けられてきましたから。」

その割にはかなりぶっちょう面ですけど。





結局自分の事は名前と年しか分からない今の状況では、どうすればいいのか全く思いつかなったため、初対面の人の家にお邪魔することにした。
(きっと)普段では考えられない行動だ。
それでも正直かなり救われた。
1人だったら途方に暮れたままどうなっていたか分からない。


そして連れて来られた所は、マンションだった。
話を聞く限りでは一人で住んでいるらしいが、どうも歯切れが悪い。
おまけにどう考えてもこれは高級マンションだ。
暗証番号とカードがなければ入り口から中には入れないしどこを見ていても視界の隅にカメラが映る。
そして部屋のドアはオートロックだ。
中に入ってみるとドアがいくつも見える。
一体いくつ部屋があるんだ…?

「…すごいところに住んでんだな…。」

思わずポツリと呟くと、隣で苦笑したのが分かった。
もしかしたら誰かを連れてくるたびに言われているのかもしれない。
でもそれは仕方ないだろう。

「俺じゃなくて親のお金だから…自慢もできないですよ。」
「…それ、充分自慢できることだと思うけど…。」
「人の実績を自慢したって虚しいだけじゃありません?」

なんだか一気に好感度が上がったぞ。
こういう奴は好きだ。

「あ、そだ。名前。」
「名前?名前がどうかしたんですか?」
「いや、俺の名前は言ったけど、まだ聞いてなかったな〜と思って。」

俺に言われて思い当たったらしい。
そういえばそうだった、とか呟いてから改めて俺に向き直った。
どうも行動が紳士的に見えるのは例の親の躾の成果なのだろうか。
でもこれで俺より年下っていうんだから驚き…

「俺の名前は柳田 涼夜(やなぎだ りょうや)。年は16歳。両親はとある会社を経営しているので俺はこんなところにも住む事が出来てます。今は諸事情で1人で暮らしてます。と言っても昔から家にはほとんど誰もいなかったのでずっと1人暮らししてきたようなものですけど。誰も来る人はいないし、ご覧の通りなかなか泥棒とかそういった類も入る事は出来ないので何も心配しないでゆっくりしていってください。」

驚き…

………。


「えぇぇぇぇ!?16歳!?俺より3歳も下なのか!?」

想像していたより離れてたことに一番驚いてしまったので思わず叫んでしまったが、今の話の中でここはこんなに驚くポイントではなかったよな。
それはお互いが思ったことだったらしく、彼は俺の顔をまじまじと見つめて、おもむろに――かなり唐突に――笑い出した。

「な、何に驚いているのかと思ったら…。俺、こ、この話して、そのポイントでこんなに驚いた人…は、はじめて…ですよ…。」

そんな息絶え絶えの状態で言わなくてもいいよ!!
なんか妙に恥ずかしくなるじゃないか!
俺が心の中でいくらそう思っていても相手に伝わるはずはないんだけど。

「なんだよ。じゃあいつもはどのポイントで驚かれるんだよ。」
「…な、なんか可愛いんですけど……優さん。」
「はぁ?それ男に使う単語じゃない。」
「優さんになら当て嵌まります。」
「てかさん付けしなくてもいいし。」
「俺は年上にはさん付けしか出来ないんです。あ、俺の事は涼夜って呼び捨てにしてくださいね。もしさん付けとかされたら親にどやされます。」

どれだけ年上を敬うように教育されてきたんだこいつは。

「それより濡れたままじゃホントに風邪引きます。早く風呂に入ってきてください。」

そう言いながらいつの間に用意したのか、タオルと下着と替えの服を手渡された。
それは涼夜ではとても着れなさそうな服で。
思わず受け取り、それらをまじまじと見ていると、何を勘違いしたのか涼夜はまた苦笑しながら言った。

「安心してください。下着はまだ使ってない新しいやつですから。さすがに人の使ったものは洗ってるやつでも嫌でしょう?」

まぁ、それはそうだけど…。
別にそのことを考えていたわけではなくて…。

「いや、そうじゃなくて…。この服、俺が着ちゃってもいいのか?」
「え?」

そんなに驚くことかは分からないが、これは俺にとっては大きいけど、明らかに涼夜より小さいサイズだ。
ということは当然これは彼の物ではない。
となると家族か友人か…あるいは――…。
声に出さずに目で訴えていると、彼にも俺の言いたいことが伝わったのか一瞬泣きそうな顔をした後、口元に淡い笑みを浮かべた。
初めに感じたような、悲しい色…。

「いいんだ。もう、必要…ないから…。」

今日初めて会った相手にこれ以上深く突っ込む事は出来なかったので、素直に場所を教えてもらって風呂に入ることに決めた。