3章



Act.35


教室から出て来た栗原親子は、壁に寄りかかっている俺を見て驚いた顔をした。
俺は、自分の手が汗ばむのを感じた。

「あら、さっきの…。」
「……面談は、終わりですか?」

俺の緊張した声に気づいていないはずはないのに、にこやかな笑顔はそのままで。

「えぇ。私になにか用かしら?」

言葉もなく頷いた俺に、蒼白な顔をしている栗原だけが未だに茫然としていた。






ゆっくりと歩きながらやってきたのはさっきの桜の木の近く。
なんとなく校舎内では話をしたくなかった。
他の学年はまだ午後の授業中だから人はいない。
午前で終わった三年もみんな帰った後みたいで、ここは静かだった。
だからだろうか。
風に揺られて聞こえる葉の音がやけに大きく聞こえる。
それが緊張感をさらに増長させて言葉がなかなか出なかった。

「………あぁ、そう、なのね…。」

そんな沈黙を破ったのは、栗原のおばさんのその一言だった。
穏やかな笑みは保ったまま、俺を見つめている。
その眼差しは、“あの時”と同じだった。

「さっき会った時から、表現できない何かを感じていたのだけど…そう…気づいていた…のね…。」
「………母さん。」

おばさんのその言葉に、栗原はギュッと目を閉じてしまった。
…そうだ、栗原は始めから気づいていた。
俺が自己紹介をした時、驚いたように俺の名前を呟いていた。
それからしばらく俺に対して怯えているように、顔すら背けていた。

……今なら、あの時の栗原の気持ちが、理解できるかもしれない。

「貴方が、海斗君…なのね。」

ふっと笑みを消して呟いたそのおばさんの言葉の中から、悲しみが感じられた。
それは何かを失った悲しみとかそういうものではなくて、何かを後悔しているような。

………後悔?

「…俺の、名前を…知っていたんですね。」

一度言葉を発してしまうと、それまで感じていた緊張感や震えがぴたりと消えた。
深呼吸をして周りを見渡す。

……大丈夫。俺はもう…大丈夫。

「初めてこの学校で栗原と会った時、俺は何も知らなかった。……何も、覚えていなかった。」

目を閉じている栗原がピクリと動いた。
震えている手が、彼の緊張を表しているようだ。

「栗原の事も、おばさんのことも……昔の事は、何一つ覚えていなかった。」

ばっと栗原の顔が上がった。
やっと、彼と向き合う事が出来た気がする。

「…ごめんな栗原。俺はずっと逃げてて、自分から目を背けて…誰かを傷つけている事すら気づいていなかった。」
「…ち、違うよ!そうじゃなくて…僕は…。」

何かを言おうとして、言葉が出なかったのか、栗原は困ったように眉を寄せた。
またしばらく沈黙が続く。

「鈴森君は、悪くないよ。僕…僕だって、“あの時”は、何も分かっていなかったんだから。」

あの時?

一体なんの事を言っているのか分からなくて訝しげな表情をした時、じゃり、と砂を踏んだ音と意外な人物の声がした。

「………あ…。」

俺の後ろから聞こえたその声にふっと現実感が戻ってくる。
たったその一文字に、しまった、というような響きを感じて。
いや、なによりその声に懐かしさを感じて振り返ると、そこにいたのは有川だった。
そう。しばらくライブで学校に来ていなかった有川が、久しぶりに、姿を現していた。
…とてもタイミングが、悪すぎる…。

「有川?どうしてここに…。」

一気に気が抜けて思わずそう尋ねると、小さい声でライブ終わったから…と言われた。
あぁ…。まぁ、そりゃそうだよ…な…。

「…あ、ごめん、俺、じゃま…。」

俺たちの異様な雰囲気に気付いたのかその場を立ち去ろうとしたんだろうが、今更いなくなられる方がこっちは気まずい。
それはおばさんも感じたみたいで、あぁ。いいのよ、と言った。

「海斗君……明日…空いている?改めてちゃんとお話をしましょう?」

明日は学校の創立記念日で、休みだ。
特に用事はないから黙ったまま頷くと、笑みを返してくれた。
栗原だけが何か言いたげにしていたが結局何も言いださずに黙っていた。

「…明日、お昼過ぎに和弘に迎えに行かせるから…。」

その言葉にも無言のまま頷く。
まだ何かを言いたげだった栗原は、ため息をつき、「…一時ごろ、部屋に行くね…。」と呟いた。
そのまま、何か用事があるのか栗原親子は学校を後にした。
残ったのは何を話したらいいのか困っている有川と、気が抜けてぼーとしている俺だけ…。

……。
明日…。
言いたい事も聞きたい事も沢山ある。
もしかしたら気持ちを落ち着かせるためのいい時間が出来たのかもしれない。


「…有川、とりあえず、ありがとう。」
「うん…?」

有川は突然お礼を言われて意味が分からないような顔をしたけど、俺はへらっと笑ってごまかした。
日本人特有のごまかし方だ。

「それよりライブどうだった?」

明らかに無理矢理話題を逸らそうとした話の振り方だけど、有川は何も聞かずに話を合わせてくれた。

「……いつもと変わらない…。」
「ははは。そっか。」
「………なんか、変わった…?」
「え?」

有川はじっと俺を見つめると、瞬きを数回繰り返した。
な、なんだろう…?

「…俺の顔、何かついてる?」
「ん〜、ていうか、うん…。」

え、何かついてるのか?

「………なんか、雰囲気変わった。」

雰囲気?

「うまくいえない…けど。なんか、すっきりした…感じ?憑きものが、落ちた…?」

憑きものが落ちた?

「……うん。ちゃんと、生きてる感じ…。」
「………生きてる?」

さっぱり意味が分からなくて首を傾げてる俺なんていつものように軽くスルーして、有川は何かを納得したように頷いている。

「うん…。今の方が、全然、いいと思う。」
「…?そ、そう。」
「……うん。よかった…ね。」

やっぱり有川はよくわからない。
意味は分からないけど、いいというならいいんだろう。

「…とりあえず、帰ろうか?今日はどこで寝るんだ?」

いつまでもここにいても仕方ないから寮に向かって歩きながら聞いてみた。
有川の事だからもう寝床は確保しているはずだ。

「……神林のとこ…。」
「徹の?」
「さっき門のとこで、会ったから。」
「あぁ、なるほど。…ん?じゃあ今日はもう授業ないの分かってただろ?どうしてここまで来てたんだ?」
「………進路希望の紙、出してなかったから…。」

あぁ、そうか。
学校に来てなかったからその提出もしてなかったのか…。

……進路、か。

「なぁ、聞いてもいい?」
「……うん?」
「有川は、卒業した後の事、具体的に何か考えてる?」

俺の三者面談は来週に迫っている。
まだ詳しい事は何も話していないからおばさんもおじさんも、俺が就職希望で紙を出した事は知らないでいる。
……もちろん聖也も。
何度か進路について聞かれたけど、のらりくらりかわしていたら、いつの間にか面談が始まる時期になっていた。
俺自身も就職で希望は出したけれど、具体的な事は何も考えていない。

「……俺は、とりあえず大学進学しなきゃいけないから…。」
「え?」
「…バンドのメンバーで、決めてるから…。大学までは、卒業しようっ、て…。」
「あ、そうなんだ?」

という事は、バンドもずっと続けていくつもりなんだな。
そっか…。

「……バンド、好きなんだな。」
「うん…。」

バンドの話をするとき、有川の顔つきは変わる。
それだけ真剣に向き合っているということなんだろう。

…正直、うらやましい。
有川も徹も、自分の夢を持っている。
その夢について話している時は、とても輝いて見える。
きっとそれまでに、色々悩んだり葛藤したりしたこともあったとは思う。
でも、そういう物を見つける事が出来ている、それが、とてもうらやましい。

……俺も、見つけられるだろうか。
いつか、真剣に向き合えるものを…。






『海斗…笑っていて。』






母さん、いいんだろうか。
俺は、自分の道を見つけても、いいんだろうか。




『…明日…改めてちゃんとお話をしましょう?』




明日…。
明日、ちゃんと、すべてに、決着を付けて。

ぎゅっと手を握り締めた時、頭にポン、と重みを感じた。

俺の頭に手を置いた有川は、何も知らないはずなのに。
まるで大丈夫とでも言うように微笑んでいた。

俺はその顔を見た瞬間、とても泣きたくなってしまった。

「……きっと海斗も…。」

何かを言いかけた有川は、ふと俺の後ろに視線を向けて、ふっと苦笑した。
なんだろう、と俺も後ろを向くと、なぜか仏頂面をした聖也が腕を組んで壁に寄りかかっている。
俺たちはいつの間にか寮についていた。
バチっと聖也と目があってしまい、俺は慌てて目をそらしてしまった。
やばい。
さっきの事、一気に頭によみがえって来たんだけど!!

「…じゃあ…ね、海斗。」
「えっ?」

頭の重みが無くなると同時にぬくもりが俺から離れていく。
有川はそのまま聖也の傍を通りすぎ……何故か聖也の肩をポンポン、と叩いて去って行った。

…なんなんだろう…有川。
はっ!ていうか置いてかないでくれ!
聖也と平常心で会話ができる自信がないんだ!!

まぁ、俺のそんな心の叫びが聞こえるはずもなく、有川は姿を消してしまいましたけど。
もちろん残ったのは俺と聖也だ。

「………。」
「………。」

気まずい。

「…………海斗。」
「!っはい!?」

ああぁぁぁ。声が裏返ったぁ!

「……さっき言った事、やっぱ気にしてる…よな。」
「………。」

変な反応を返してしまった後なだけに、言い返せない。

「…言った事、後悔はしてない。けど、それで海斗に避けられたりするのは、嫌なんだ。」

ゆっくり、ゆっくり聖也は俺に近づいてくる。
金縛りにあったように動けずにいる間に、すぐ近くまで来た聖也は、そっと俺を引き寄せた。
ポスっと頭が聖也の肩に当たる。

「返事が欲しいとは言わない。…だから…傍にいる事だけは、許してくれ。」

―――……。

「……ごめんな。」

それだけ言って離れていこうとする聖也を、俺は無意識の内に引きとめていた。
右手でギュっと聖也の制服を掴んで、思う事は…。

「…海斗?」

徹も聖也も…栗原も。
自分の気持ちに正直に、すべてをさらけ出して…。

…俺は…。
……おれ、は。





『おれたちはずっと一緒だよ。』





――――………。

「海斗?どうした?気分でも悪いのか?」

明日。
明日ちゃんと昔の自分と向き合うから。

そうしたら…。

「聖也、明日の夜、時間をくれ。」
「…え?」

どういう結果になったとしても。

「明日……明日、ちゃんと……返事をする。」


いつまでも…うやむやのままでは、いられない――…。