婚約者  後編





「…何考えてやがるんだあの親父…。」

とりあえず涼夜にこの一部始終を話すと、さっきの不機嫌な声なんて比べ物にならないほど恐ろしい声でそう呟いた。

「…うちの親父から優さんの事も俺との婚約話が出ていた事も聞いたんですよね?」
「ええ。」

なのに、笑みを絶やさない亜紀さんはすごいと思う。
要に次ぐ心臓の持ち主なんじゃないかな…。

「では、俺がその話を断った事も知っているんでしょう?」

それでも涼夜が敬語で対応しているのは、亜紀さんが年上だからだろう。
……さすがだな。

「はい。私もそれには異存ありません。」
「えっ?そうなんですか?」

てっきりその事について話があるのかと思っていたから、意外だった。
思わず驚きの声を上げると、亜紀さんは穏やかに微笑んだ。
その顔があまりにも綺麗で、思わず見入ってしまった。

…そうだよな。
亜紀さんと俺とじゃ、やっぱり違うところのほうが多い。
当たり前だ。
俺は男なんだから。

「優さん!」
「え?うわっ!」

何かに苛立った様な声が聞こえたと思った次の瞬間、俺は涼夜の膝の上にいた。
驚いた亜紀さんの顔が見える。

「えっ、な、何!?離し…。」
「駄目です。」

だ、駄目ですって…!
そんな力入れて抱きしめられたら動けない……!
亜紀さんが見てるのに何してんだよ〜〜。

「で、今日はなんの用でいらしたんですか?」

なんとか腕から抜け出そうとする俺を難なく押さえつけながら涼夜は亜紀さんにそう尋ねた。
え、俺このまま会話するの!?

「え、あぁ…そうですね。その事をまだ何もお話していませんでしたね。」

涼夜の行動に驚いていた亜紀さんは、それでもなんとか平静を保つと話し始めた。
すごいよ。
俺1人であたふたしてんじゃん…。

「婚約解消に異存がないということは、もう俺には用はないはずでしょう?なのになぜ態々ここまで来たんですか。」
「…ふふふ。そんな怖い顔なさらないで下さい。確かに今は、婚約解消に異存はありませんわ。でも、ここに来るまでは婚約解消を解消させていただくつもりだったんですよ?」

んん?
婚約解消を解消?

………。

それってつまり納得してないって事じゃないか!

「…どういうことです?」
「婚約のお話が出てから婚約解消になるまで、私たちお会いした事がなかったでしょう?ですから、一度くらいお会いしてから結論を出していただきたいと思ってここまで来たんです。」
「……。」

俺はいつの間にか涼夜の腕の中で大人しくなってしまった。
それくらい亜紀さんの言葉が…衝撃で。

「…でも、今はもうそのつもりがないと…そういうことですよね?」
「ええ。その通りです。」

にこにこ笑いながら話す亜紀さんの言葉が理解できない。

「…では、お帰りください。」
「え、涼夜?」

なんか亜紀さんを邪険にしてるようなそんな涼夜の態度が信じられなくて思わず声を上げると、いかにも不機嫌ですって顔でこっちを見られた。
…俺、何かした?

「まぁ。そんな嫌がらないで下さい。でも……あなたのお父様は素晴らしいですね。」
「……父が何か?」
「ええ。あの方は、あなた達お2人のご関係を正確に把握していらっしゃいます。」

…………。

…え?

「……調べたのか。あのくそ親父……。」
「その上で、今回私にここへ行ってほしいと。」
「ということは……。」
「はい。お2人を別れさせるようにと仰っていました。」

別れさせる…ように…。

「実際私もこの目で見るまでは、そのつもりでした。………でも…。」

そう言ってちらりと俺を見る亜紀さんの目を、この時は全く怖いとは思わなかった。
むしろ包み込んでくれているみたいな、そんな包容力を感じる。

「…安心してください。そんなつもりありません。お2人を見ていたら…そんな事をしても何もいい事なんてないと…思いました。」
「……。」

そう言って顔を伏せる亜紀さんが…なんだかとても…。

「それでも…。」
「え?」
「…いえ。では、今日はもう帰りますね。突然伺ってしまい、申し訳ありませんでした。」

なんだかとても、儚げに見えて…。

「え…と、また、いらしてください…ね?」

思わず言ってしまったその言葉に、涼夜が驚いていたけど俺が一番驚いた。
なんで…いわゆる“ライバル”相手に、こんな事言っているんだ?俺は。
それと同時に、俺を抱きしめている腕の力が強くなったのが分かった。

「まぁ…。ありがとうございます、優さん。」

そして玄関の方に向かっていく亜紀さんを見送るために立ち上がろうとしたのに、腕の拘束が解けずに全く動けなかった。
涼夜は何か厳しい顔をしたまま俺の顔を見ている。

「……涼夜?」
「……。」

戸惑っている俺に気づいたんだろう。
亜紀さんは苦笑すると、そのまま頭を下げてから部屋を出て行った。

だから、ドアの外で亜紀さんが呟いた言葉なんて俺にも涼夜にも聞こえるはずもなかった。

「…私、涼夜さんが羨ましいですわ…。」






◇◇◇◇◇◇






「…涼夜、どうしたんだよ?」
「……優さん…。」

亜紀さんが帰ってから、涼夜は俺に縋っているかのように抱きしめるだけで、時間はどんどん過ぎていく。
なんだか不安定になっている涼夜をそのままにしておく事は出来なくて、俺はただじっとしていた。

……でも、今日、改めて思い知った気がする。
男の俺では涼夜に与えられないものが沢山あるって事を。
世間一般でいう幸せな家庭というものは、俺とでは確実に作れない。


そんなこと……始めから分かっていたのに…。


「…優さん。あの人のこと、好きにならないで下さいね。」
「へ?」

だから涼夜がそんな事言うとは思っていなかった。

「へ?じゃありません。さっきから優さん、あの人にずっと見惚れてたじゃないですか。」

え、いや、確かに綺麗だな〜と思ってはいたけど、そんなずっと見惚れてたなんて事は…。

「また来てくださいとか言ってましたし…。」

うん。
あれには自分も驚いたよ。

「もし優さんが俺以外の人を好きになったら……。」

……なったら?

「……自分でも、何をするか分かりません。優さんにも、その相手にも。」

ほぼ脅しじゃないか。
でもそれって、それだけ俺のことを想ってくれているという事で。
やきもちを妬いてくれているということだから。

……嬉しい。

「…涼夜は、俺のことが信用できないの?」
「違います。自分に自信がないだけです。」

そんな…自信がないのは、むしろ俺の方で…。

涼夜は知らないのかな。
涼夜はただ道を歩いているだけで女の人の視線を集めているって事。
俺がその隣でいつも、どれだけ…やきもちを妬いているのかって事。

なんか恥ずかしくて、そんな事言えないけど。

「…涼夜……好きだよ。」

たったこの4文字も普段は言えないけど。

「優さん……俺も、愛してます。」

こんなに嬉しそうに笑ってくれるなら、もっと頑張って言ってみようかなって思う。

涼夜が望んでくれるなら……俺はずっと…。

「…しかしうちの親父をどうにかしないと…。勝手に優さんのこと調べるなんて…。」
「あ、そういえば俺たちのこと反対してるって…。」
「毎回そうなんです。今まで俺が付き合ってきた相手は皆。」

忌々しそうな顔をしてそう語る涼夜は…やっぱり怖い。

「…それにあの女もなんか気になります…。やっぱり何か企んでるんじゃ…。」
「……(女呼ばわりになっちゃった…)涼夜、考えすぎじゃない…?」
「いえ。念には念を入れておいたほうがいいんです。優さんも気を付けてください。」
「…うん…。」
「俺は、優さんがいてくれればそれでいいんです。」

うん…。
俺も。

声に出さずにそう答えると涼夜は穏やかに微笑んで、優しいキスをしてくれた。








涼夜。

涼夜が望んでくれるなら……俺はずっと傍にいる。
いつまでも、涼夜の傍に。








………ずっと。












そして、涼夜が危惧していたように亜紀さんが後々俺たちに嵐を巻き起こすのだが……。
このときの俺は、そんな事全く思いもしていなかった。





End.