婚約者  前編





それはある晴れた日の事だった。

「婚約者の亜紀です。」

涼夜の婚約者が現れた。






始めにその話があったのは約1週間前だった。
いつものようにご飯を食べた後2人でテレビを見ているときに電話が鳴った。

「はい。柳田です。」
『……だれだ?』

たまたま近くにいた俺がその電話を出ただけなんだが、相手は予想外の存在だったらしい。
名前を名乗るよりも先に、訝しげな声でそう聞いてきた。

「……ですから、柳田ですが…どちら様ですか。」
「優さん?」

声のトーンが下がった俺に何かを感じたのか、心配そうに涼夜が声をかけてきた。
とりあえず大丈夫だ、というように右手を上げて俺は相手の声に神経を集中させた。

『…涼夜は、不在ですか。』

声からしてそこそこ年の言った男の人だろう。
相変わらず名前は名乗らないけど、とりあえず涼夜に用があるらしい。
まぁ、電話は大抵涼夜にかかってくるからそうだろうとは思ったけど。

「お名前を伺ってよろしいですか?」

とりあえず丁寧に対応しようとしたのだが、次の言葉にぷちっといってしまった。

『どうでもいいから涼夜をだせ。近くにいるんだろう。』

なんだこの態度の悪いおっさんは!
このままだと相手に何を言ってしまうか分からなかったから、早々に涼夜に変わる事にした。

「涼夜!誰だか知らないけどおじ…男の人から電話!」

心配そうにこっちの様子を伺っていた涼夜はその機嫌の悪い声に驚いたのか、すばやく俺と電話を代わった。

「もしもし!お電話代わりまし………ぇ…親父!?」
「えぇっ!?涼夜のお父さん!?」



そんなわけで涼夜の父親の第一印象は最悪だった。








「なんだよ急に…は?だからさっきの人は友達だよ…そうだよ。分かってるって。………だから何の用でいきなり電話なんかしてきたんだよ。」

かれこれ10分。
さっきから涼夜は同じような台詞ばかり言っている。
どうも内容からして俺のことのような気がするんだけど…。
それより驚いたのは涼夜のおじさんへの対応がかなり冷たい事だ。
相手が分かったとたん不機嫌な声になった上、必要最低限のことは話さないようにしている。






「だから……え?いや、いないよそんな人…。いや、そんなの余計なお世話……………はぁぁぁ!?」

いつ終わるのかなぁと、テレビを見ながらぼ〜と待っていた俺の耳にそんな涼夜の声が聞こえてきたのはあれからさらに5分後。
何事かと振り返ると涼夜の顔がすごい事になっていた。

……怖いよ。

「ふざけんな!何そんなこと勝手に決めてんだ!…そんなの関係ねぇよ!俺の気持ちはどうなるんだ!めったに俺の事なんて気にしないくせにこんな時だけ親子だなんて言うな!!」

…こんなに怒鳴り散らしてる姿を見るのは初めてだ…。

「俺は絶対婚約者なんて認めないからな!!」

………え?

…婚約…者?

「もうかけてくんな!!」

ガチャン!

力の限り受話器を置いた涼夜に、もっと物は大切に扱えよ、なんて注意ができないほど俺は混乱していた。
だって、今の話の展開から考えて…婚約者って…。

「…婚約者?」

俺の心の呟きは無意識に声に出ていたらしい。
涼夜がぎょっとしたようにこっちを振り返った。

「ゆ、優さん!誤解しないでください!婚約者って言っても俺は一回も会った事なんてないですし親が勝手にそう決めただけで…。」
「……。」
「もういい年だから…って、俺はまだ21歳ですし…!それにそろそろ身を固めろって親らしい事を言っておきながらこれは絶対に政略結婚です!今時流行りませんよこんなの!!」

…うん、涼夜。
今ので大体分かったから、少し落ち着こう。






これが一週間前の出来事。
このあと懲りずに何度も電話を掛けてくる親に、涼夜はその度抗議して、なんとかこの話は決着をつけた……はずだった。

今日、その婚約者が現れるまでは。






「婚約者の、亜紀です。」
「………えぇーと、ただ今涼夜……さんは外出しておりまして…。」

年と名前を名乗って現れたこの女の人を前に、俺はしどろもどろになりながら何とかそう言葉を紡いだ。
頭の中は真っ白だ。

「あなたが優さんですね?」

涼夜の婚約者だと名乗ったその可愛らしい女の人は、ふんわりと柔らかい笑みを浮かべながら衝撃の一言を発した。

「…え?な…んで俺の名前…。」
「涼夜さんのお父様から伺いました。」

にこにことした表情からはかけ離れた、恐ろしい言葉を次々と発してくる。
いや、この人からしてみたら何てことない台詞なんだろうけど俺にしてみたら恐ろしい事この上ない。
だって、俺がここに住んでることを知っているのは要と日向先輩と、僅かな友人だけだ。
なのにどうして涼夜の父親が俺の名前を知っている?

「突然伺ってきてしまい、申し訳ありません。ですが、どうしても会ってみたかったものですから…。」

明らかに年下である俺に対して、こんなに丁寧に対応してくれるこの人がとてもいい人に思えてしまうのは単純だろうか。

「え〜と…。もうすぐ帰ってくると思うので…とりあえず上がりませんか?」

俺の言葉にその人は、とても嬉しそうに笑って頷いた。






「すみません、俺…お茶の入れ方とかうまくないのであまりおいしくないかもしれないんですけど…。」
「まぁ、わざわざすみません。お気遣いなさらないでください。」

それでも俺の入れたお茶をおいしそうに飲んでくれるこの人は、やっぱりいい人だ。
そうに違いない。
でも…。
例の、涼夜の婚約者…なんだよな?
結婚……相手って、事…なんだよな?

涼夜が…結婚?

「どうかなさいましたか?」

湯飲みをもったまま思考の世界に嵌っていた俺に、亜紀さんは不思議そうに声をかけてきた。
しまったしまった。
今はそんなこと考えてる場合じゃなかった。

「いえ。何でもありません。それより今日はどうやってここに?」
「家の者に送ってもらいました。」

薄々分かっていたけど、この人…相当なお嬢様って感じだな。
あ、でもそうか。
たしか涼夜は政略結婚とか言ってたから当たり前か…。

…忘れてたけど、涼夜の家ってお金持ちなんだよな…。
将来は…家を継ぐんだろうか…?
今年の春からサラリーマンとか言ってたけど、実際どうなるんだろう…。

「…亜紀さんは…。」
「はい。何でしょう?」
「涼夜……さんと、結婚…するんですか?」

俺のその質問に、とても綺麗な笑顔を見せた亜紀さんが口を開いた。
…その時だった。

「………優さん。その人誰ですか。」

不機嫌そうな涼夜の声が聞こえたのは。