桜の木の下で
10.
「おかえり。」
目を開けた瞬間、要の笑顔が見えた。
とても優しく、とても…嬉しそうな。
「要…?」
「うん。大丈夫?何かボーとしてる…。」
何だろう。
ずっと寝ていたような感覚だ。
でも何か、とても大切な夢を、見ていた気がする。
楽しくて、悲しくて、つらくて…愛しい夢。
「…1ヶ月近くずっと眠っていたから、頭が働いてないのかもね…。覚えてる?あの桜の木の下で、俺と別れた後…いきなり優、倒れちゃって。」
…そうだ。
要に振られたんだ、俺。
「この病院に運ばれても…ずっと目を覚まさなくて。あ、そうだ…看護師呼んでこなきゃ…。」
でも、どうしてここに要がいるんだ?
もしかして、何か責任を感じてる?
俺が倒れたのは決して要のせいではなくて…。
あれは…
……あれは…?
「優、少し休んで。疲れただろう?」
俺の目を要が手のひらで覆うと、すぐに睡魔が襲ってきて…。
俺は、夢を見た。
忘れてはいけない、忘れたくない、大切な夢を。
そして本当に…
すべてを思い出した。
◇◇◇◇◇
「特に異常は見られませんし、すぐに退院できるでしょう。」
要は、再び俺が目を覚ました後に看護師さんを呼んでくれた。
先生が色々話をしてくれたり、いくつか検査もしたけど、俺はそれどころじゃなかった。
あの“夢”は、夢だったのだろうか。
本当に涼夜やカナタは、存在している人なのだろうか。
夢ではないと信じたいけど、それを確かめられる術は何もない。
もしかしたら本当に夢だったのかもしれない。
そんなことを考えながら淡々と過ごしていた俺に何も言わず、要はずっと傍にいてくれた。
どうしてだろう。
他に、好きな人が出来たと言っていた。
きっと、あの、高校からの先輩の事だと俺は思っている。
彼の傍には、行かなくていいんだろうか。
2日後。
俺は退院した。
俺にももちろん家族はいるけど、実は全くうまくいっていない。
もう何年も連絡を取っていないぐらいだ。
小さい頃に両親が離婚してから、俺はすでに独り暮らしをしているようなものだった。
なので俺が入院していた事を知っても、一度も見舞いには来なかった。
一応入院費は払ってくれたみたいだけど…。
その事を要は良く知っているから、この退院の日も迎えに来てくれた。
「退院おめでとう。」
そう言って笑う要の顔は何故かとても嬉しそうで。
…今まで見た事がないくらいに。
「うん。…ありがとう…。」
なんか、目が覚めてから要の対応に困ってしまう。
以前と同じように…いや、以前以上に親しげになっているのは気のせいだろうか。
それに、よく笑う。
「…なんか、要…嬉しそうだね?」
「そりゃ嬉しいよ。」
「……いい事でもあった?」
「そう…だね。うん。なんていうか…やっとって感じ?」
「やっと…?」
「そう。」
そんな話をしながら俺と要は歩いていた。
はっと気付いた時には、この1ヶ月近くよく見てきた風景があって。
「…桜の木…。」
前に要とここに来た時は別れ話だった。
もう二人でここに来る事はないと思っていたのに…。
「……俺がここで優を振ったことには、訳があるんだ。」
桜の木を見上げながら突然要はそう言った。
今、そこにはない桜の花を見ているかのように。
「…訳?」
「そう。……本当は俺、ずっと前からこの木の事、知ってた。」
「え?」
「優には知らない振りしてたけど…俺はこの桜の木が好きだったんだ。ずっと。」
俺たちが知り合ってすぐ、俺はこの桜の木を見つけた。
何故かすごく印象に残って要に知っているか聞いてみたけど、あの時は確か…知らないと言っていた。
「俺はここである人たちに出会った。初めて会ったとき、その二人は…男同士で、抱き合っていた。」
……え?
「なんとなく気になって見てたら、その人たちが寄りかかってる柵が今にも外れそうになってて…。声をかけたけど間に合わなくて二人とも川に落ちた。あんな寒い日の冷たい川の中に。」
要はそのときの状況を思い出したのか、少し噴出すと今度はこっちに向き直った。
「それからよく二人には会うようになって…色々話をしたりして……でも、突然そのうちの1人が消えた。俺の、目の前で。」
「………。」
心臓が、バクバクいっているのが分かる。
その、話は…。
「ずっと、待ってたんだ。」
風が、吹いた。
「…おかえり。“優さん”。」
要は、カナタだったのか。
それが分かった瞬間、今までの出来事がすべて繋がった気がした。
俺と初めて会ったとき泣いていた要。
あえてクリスマスイブに、この場所で俺を振った行動。
そして、あの嬉しそうな笑顔。
すべて、俺と涼夜が出会うための…。
「優。俺は二人に幸せになってもらいたい。だから今までずっと見守ってきた。」
「要……カナタ。」
「要だよ。カナタは、あの当時、学校で呼ばれていたあだ名だから。」
「…要、要はどうしてそんなに…。」
俺たちのことを思ってくれていたんだ?
俺は、あの時も今までも、何一つとしてあげられたものは無かったのに。
「……まだ待ってる人がいるから…。」
「待ってる…人?」
「俺にも…優にも。」
そういって要が優しく微笑んだ時、声が、聞こえた。
「優…さ…ん?」
忘れるはずもない、声。
振り向いた先には、あの時よりも成長した、確実に俺より年上の…。
「涼…夜。」
確かにそこにいるのは涼夜だ。
あの時よりも背は伸びてるし、顔はシャープになっているし、スーツを着ているけど…その眼差しも、俺への呼び方も、すべて…あの時のまま。
「優さん…優さん。」
俺が呆然としている間に涼夜はすぐ傍に来ていて。
気付いた時には、涼夜の腕の中にいた。
痛いほどの力。
でも、甘い…拘束。
「やっと…やっと、会えた。やっと…。」
涼夜はずっと、俺を待っていてくれたのか。
何も言わずに消えてしまった俺を、憎みはしなかったのだろうか。
「どうして……。」
聞きたいことは沢山あるのに、出てきた言葉はこれだけだった。
「それはこっちのセリフです。どうして何も言わずにいなくなってしまったんですか。」
「…ごめん……。」
「それに…。」
そっと俺の体を離した涼夜は改めて俺をまじまじと見た。
「どうしてあの時の姿のままなんですか…?」
それは、あの時…5年前の時からまったく成長してない事への疑問だろう。
そう。
俺と涼夜が出会ったあの時は、今から5年前だった。
それが分かったのは2回目に目が覚めたときだ。
目を開けた瞬間、今までのことがすべて記憶の中に入ってきて…。
でも、その事を話して、信じてくれるだろうか…。
自分ですら夢かもしれないと思った事なのに…。
「優。涼夜さんには話すべきことだよ。」
俺の考えが分かっていたかのように要はそう言った。
そしてその声を聞いて初めてその存在に気づいたらしく、涼夜は驚いたように要の方に視線を移した。
「…お前…?」
涼夜は訝しげな顔をした。
そして、次に出てきた言葉に俺は本当に驚かされた。
「お前……まさか、カナタ…?」
「……ひさし…ぶりですね。涼夜さん。」
そして要も苦笑しながらそんな事を言うから、ますます驚いた。
まるで長い間会っていなかったかのような会話。
驚いている俺に気づいたらしい要は、今度は俺の方に視線を移して苦笑した。
「俺と涼夜さんは、優が消えてから今日まで一度も会ってなかったから。」
「……え?」
要と涼夜を交互に見ると、途端に涼夜が気まずそうな顔をした。
……涼夜?
「俺が……もう来るなって言ったんです。」
「…え?どうして……?」
「…あの時は、俺も混乱していて…優さんがいなくなってしまった理由をカナタは知っていた風だったのに、何も教えてくれなくて…。つい言ってしまったんです。」
「……!」
「後からどれだけ後悔したか…。その後本当にカナタは来なくなってしまった。どこにいるのかも知らなかった事に気づいたのはそのときです。もう謝る事もできないのかと…。」
違う。
本当に謝らなければいけないのは…。
「俺だ…。」
「優さん?」
「…カナタに、言ったのは俺なんだ。涼夜には何も言わないでくれって。」
「……。」
「カナタはそれを守ってくれただけなんだ。カナタも涼夜も、何も悪くないよ…。」
俺のわがままが…自分勝手な行動が、こんなに2人に迷惑をかけてしまう結果になるなんて…。
「…もう、いいですよ。涼夜さんも、優も。今、こうしてまた会えた。俺はそれが一番嬉しい事だから。この5年間ずっと、それだけを思ってきたから。」
「…要。」
「だから、優は涼夜さんに、今度こそすべてを話してあげてほしい。涼夜さんはずっと優を待っていたから。」
要はそう言うと、その場から離れていった。
「…あいつには、もう一生頭が上がらないですね…。」
「……うん。」
要にも幸せになってほしい。
今度は俺達が要に幸せを運ぶ番だ。
そして俺は見た。
要が歩いて行った方向に、あの“先輩”がいたことを。
その先輩は嬉しそうに要を見ていた。
「…優さん、俺まだ…分からないことが沢山あるんです。教えてください。」
「うん…。」
聞きたいことや、話したい事がたくさんあったけど…。
今はとにかく、お互いの存在を確かめ合いたかった。
「帰りましょう優さん。」
そう言って、手を差し伸べてくれる涼夜に…。
俺は笑って、手を重ねた。
桜には不思議な力がある。
それは、時をも越えてしまう…奇跡。
出会った2人の縁は決して切れない。
そして…2人は必ず、幸せになる。
End.